Baccano!

1931: Cry for the moon (3)



――・・あ、大丈夫ですか? さん」

隙間から薄明かりの差し込む天井を、ただぼんやりと見上げていたの耳に声が届いた。その声を耳にして、彼女はようやくここがどこなのかを思い出す。心配そうに覗き込んでくるシャフトや仲間の舎弟たちに小さな微笑みを見せてむくりと体を起こし、ふあふあと大きな欠伸をひとつ。――いくら体調不良だったからといって、硬い地面の上、服の上着を毛布代わりによくここまで眠れたものだ。意識が飛ばされたのはあの直後、ずるずると崩れるように倒れたのを最後にの記憶は途切れている。

目尻に浮かんだ涙を手の甲で拭った彼女は、何かを探すようにきょろきょろと視線をめぐらせた。よほど心配させたのだろうか、二重三重に囲んでいる少年たちの顔を夜のような漆黒の瞳にしっかり映す。薄暗い工場の中にあっても決してそれに飲まれることなく、というか正直やかましいほど存在を訴えかけてくる金色、もしくは青色を少年たちの中に探したのだが――と、そこまで考えては、現状の “ありえなさ” に総毛立った。女心よりも激しい喜怒哀楽の移り変わりをもつあの、“黙ってろ” と告げてから10秒だって口を噤んでいられないあの、無駄にいい声を湯水のようにじゃんじゃん無駄遣いするあのグラハムが。

こんな長い時間、静寂を守っていられるなんて!

「・・今なら、海がぱっくり割れるのと同じくらい珍しいもんが見られますよ」
「・・・・・・・・・・・・・・」
「でも、ローテンションなグラハムさんなんて、気持ち悪くて見てられないんです」

差し込む光の加減で今現在最も暗くなっている工場の隅、ただでさえじめじめと空気が淀んでいるというのに、ドラム缶の上で両膝を抱える青い物体が四方に撒き散らすのはハドソン川から流れ込む湿気を二倍三倍に濃縮したあげく、鬱々として体にねっとりと絡みつくような不快感。こちらに背を向けているせいで正確なところはわからないが、ぶつぶつと呪文のように呟かれる言葉の端々に聞こえる、ゴンッ・・ゴンッ・・という鈍い音から察するに、愛用のモンキーレンチに額を打ち付けているのだろう。・・・シャフトの言うとおりだ、確かに見られたもんじゃない。

「グラハム、」

の呼びかけに、ビクッと背中を震わせるグラハム。くるくるとよく回る口が紡ぎだしていた言葉の羅列が、まるで故障したレープレコーダーのようにピタリと止まる。

「・・グラハ 「ああ、悲しい・・なんて悲しい話なんだ」
「俺は、俺が愛する女の不調に気付かずレンチを振り上げ、思い切り蹴り飛ばし、あまつさえぶっ壊すところだった・・・最低だ、人間として最低すぎる。・・・・・あ、やべ、なんかほんとに涙出てきたんだけどこれ。視界が歪んで何も見えない、ああついに、世界すら俺を見放すというのか?俺が見放した俺を?世界が? ・・・・・ああ、俺はひとりだ、世界中でたったひとりだ、・・・・悲しい・・これほど悲しい話がいまだかつて存在しただろうか? ・・しかし残念なことに、俺にはそれよりもずっとずっと悲しむべき話がある。――そう・・俺はあのとき確かに、が壊れそうになった瞬間俺は確かに、途轍もなくワクワクしていた!」

「悲しい、とてもとても悲しい話だ・・・俺は俺の放った攻撃からを庇いながら、俺は俺の攻撃によってが壊れることを考えて絶望的に興奮していた・・・ああ、この天と地ほども離れた、理想と現実ほどもかけ離れた矛盾が悲しい、悲しすぎる! ・・それでもいま俺はあのときのことを思い出すだけで全身がゾクゾク震えるほど興奮するわけだが、きっとはこんな俺を許さないだろう。なぜなら、もし俺がだったとして俺が俺だったとして、俺を許すとは思えないのだから! ・・・・・ッああ、俺はもう二度とと言葉を交わすことができないのだろうか、もう二度とあんなふうに壊しあうことができないのだろうか・・、そんなのはあんまりつらすぎる・・・! ―――やばい、ともう会えないかと思うと悲しくて悲しくて悲しくて悲しくて、なんかもう色んなもんがどうでもよくなってきたぞ・・そうだなとりあえず、なんか・・・・・・・・・・・壊すか?」

「人の話を聞けっつーの、グラハムこのヤロウ」

間一髪のところを助けられたとか、グラハムの左手が包帯でぐるぐる巻きにされているのは間違いなく自分のせいだとか、の心に浮かんだわずかばかしの遠慮と良心は、滔々と淀みなく紡がれる言葉の海の前で跡形もなく消え去った。砂浜に埋もれたとか、波にさらわれたとかそう次元ではない、蒸発するかのように欠片の痕跡も残さず消え失せる。・・スラムの暗がりで目ばかりをギラギラさせている子どものように、膝を抱えて座り込んでいるドラム缶、は地面に転がっていた巨大なレンチを拾い上げるとまるでホームランバッターのように肩に担ぎ、ドラム缶の横っ面を持てる力のすべてを込めて叩きつけた。

「・・・ッうわ、手ぇビリビリする・・! ―――・・っておいグラハム、お前、ちょっとこっち向け」
「いやだ」
「・・・・・・・・・・・・・グラハム君? ちょっと、何ふざけたこと言ってんの?」

ひくりと頬を引きつらせると、よりいっそう頑なに膝を抱え込むグラハム。

「だって、は怒っているんだろう? お前を壊しそうになった俺を、お前を壊しそうになったことでこれ以上ないほどワクワクした俺を怒っているだろう? ・・怒られるのはいい、それはつまりの注意が俺に向けられているということだから何の問題もない、OK過ぎるほどにOKだ! だが問題はそのあとにある・・・・きっとはこの先俺と目もあわせてくれないに違いない、きっと俺が目の前にいたとしても俺の姿が見えないかのように振る舞うのだろう!? ああ、耐えられない、そんな悲しいことは考えただけでも憂鬱になれる・・・・・・・・そうだ、誰かが俺を壊してくれればいいんじゃないか? そうすれば俺はこの悲しみから開放され、この憂鬱を捨て去ることができるはず! ――というわけだから、そのレンチで俺を壊せ」

「ありがとな、グラハム」

話しているうちにだんだん逆の意味でテンションが上がってきたのだろう。それまで額を押し当てていた膝のあたまからがばっと顔を上げたグラハムは、さも名案といわんばかりに青い瞳をキラキラさせていたがその直後、に告げられた言葉に時を停止させた。死にかけの魚のような半開きの目は真ん丸に見開かれ、七割方意味のない言葉を器用に並べ立てる口はパクパクと開け閉めを繰り返すばかりで音を生み出さない。彼の手の中に握られていたモンキーレンチが、ごとりと地面に落下した。

「な、なななな・・何を、言っているんだ? 俺は今、が “ありがとう” と感謝の言葉を口にしたような気がしたが・・・・・・・・・ああそうか、これは夢か。それならを壊しかけたことにも、感謝されることにも辻褄が合う! そうだ、ラッドの兄貴やあの忌々しい赤毛野郎に次ぐほど不遜な態度をとるが、俺に “ありがとう” だなんて、そんなのどう考えたって都合がよすぎる! なぁそうなんだろう、シャフト? これは俺の見ている夢であり、お前は夢を見ている俺が作り出した通行人Aなんだろう!?」
「シャフトって呼び名があるのに、なんでわざわざ通行人Aまで格下げされにゃならんのですか」
「NONONONO! これが俺の見ている夢であるとするなら、そこにでてくるシャフトはもっと素直で従順であるべきであって、今にもぶち壊したくなるようなセリフを吐くはずがない! ということは、もしかしてもしかしなくてもこれは現実・・?」
「当たり前じゃないですか、グラハムさん。いい歳なんだから、夢と現実の区別ぐらいつけてくださいよ」
「よーしよくわかった。お前には一生覚めない夢を見せてやる」

―――・・そーやって、このさきずっと俺を無視し続けるつもり?」

グラハムならできそうで怖いけどな。グラハムの座るドラム缶に自身も腰掛け、足をぶらぶらさせながら苦く笑う。彼女の言葉に決して小さくない体をビクッと震わせたグラハムはその拍子に、取り戻しかけたいつもの調子を見失う。きょろきょろそわそわ、これではまるでイタズラが見つかるのを恐れている子どものような態度だがもちろん本人に自覚はない。半開きの目からのぞく空色をふらふらと落ち着かない様子で漂わせ、首をわずかにひねったところに座る彼女を横目でちらりと盗み見ては体ごと正面に向きなおす・・・・・見つかったら見つかったで怒られるに決まっているが、見つからないイタズラは面白くないのだ。

「・・・・・・お・・怒られるんなら、わかるが、――れ・・れ、礼を言われるのは、さっっっっぱりわからん」
「だってグラハム、俺を助けてくれたじゃん」
「・・・・・・・・・・・だが、」
「関係ないよ、今こうして俺はここにいるんだから」

つーか、壊せなかったろ?ざまぁみろ。
――そう唸るように低く呟いて、肩越しにグラハムを振り返ったはニヤリと笑う。黙ってさえいればグラハムは実に整った顔立ちをしているのだが(あと人目を引く真っ青の作業服と、血で汚れた巨大レンチを持たせなければ)、今現在なんとも様にならない表情を浮かべる彼にはひとりクツクツと笑みを忍ばせ、グラハムがそうしていたように自身も片手でレンチを弄び始めた。空中に放り投げては受け取り、受け取っては放り投げる。「・・・・・・、」 ようやく言葉を思い出したように口を開いたグラハムを、彼女は首だけで振り返る。

「んぁ、なに?」
「抱き締めても、いいだろうか」

ゴンッ。受け取り損ねた巨大レンチが、地面で盛大な砂埃を上げた。

「ああいや、違うっ、もちろん嫌だったら断ってくれて構わない!・・・・・・・・いや、本当は構わなくないが別に構わない、つーか本当は今すぐにでも抱き締めたいところだが、に嫌な顔をされたりしたらとか考えると悲しくてどうにかなってしまいそうだからとりあえずそれは我慢する! ・・・・やばい、やばいやばいやばいやばいどうしよう、に断られるとこ想像してなんか涙出てきた。ちょ、これマジやばいって、嫌がられるとか考えたら逆になんかもうすっげー抱き締めたくなってきたんだけど、俺って変態?変態なのか!? どーすりゃいいんだ、おいシャフト!」
「えええええ、なんでそこで俺に振るんすか? (折角さっき一瞬だけカッコよかったのに・・)」
「それはあれだ、ホラ! たまたまお前が目に入ったから――・・・」

この界隈では珍しい闇色の髪が頬をくすぐる、ふわりと香る甘い風にグラハムは言葉を飲み込んだ。“人の一生の心拍回数は決まっている” ――その話を耳にしたのはいつのことだったか、グラハムはさっぱり覚えていない。その結論だけが妙な納得と共に脳裏に焼きついている。それが本当の話だとすれば、は確かに俺の心臓を壊すつもりなのかもしれない・・・が、それならそれで面白い。グラハムはどろりと濁った瞳をそれでも爛々と輝かせる、口の端を病的にゆがめて。

「・・ありがとな、」

グッとこぶしを握り、「(今しかないですってグラハムさん、ここで決めなきゃ男じゃないです!)」 という舎弟たちからの無言の激励を受け取ったグラハムは、そろそろとの背中に腕を回す。彼女の肩口からきょどきょど視線を泳がせ、空中でしばらくてのひらを開いてみたり握ってみたり、いざ触れようとしてやっぱり逃げ出してみたりと無意味な動きを繰り返していた数分の後(のちに彼はその時のことを、「・・・・・え? あれ1時間くらいあったんじゃねーの?」 と能天気極まりなく舎弟たちに語った)、グラハムはようやくその小さな体を腕の中に閉じ込めた。思ったより華奢なぬくもりをほんの少しの隙間もないくらい抱き締めて、漆黒の髪に鼻先を埋める。鼻を掠める甘い匂い――はちみつ、みたいな――に、きゅうううっと心臓が一回りすぼまった気がした。

・・当人が知ったら巨大なレンチを振り回してとんでもなく怒り狂い、車だろうがビルだろうが人だろうが破壊の限りを尽くす鬼と化すだろうが、薄暗い廃工場の片隅、ひしゃげたドラム缶の上、抱き合っている一組の男女はそのくせ、まったく そういう風 には見えなかった。どちらも思春期を越えたいい年頃だというのに、どうしてだか “小さな子どもが泣きついている様子” だとか、“迷子の子どもとおまわりさん” とか、そういう風にしか目に映らないのである。予想と遥かにかけ離れた光景が繰り広げられる中で、シャフトをはじめとした舎弟たちは不思議そうに首を傾げ・・けれど、互いに顔を見合わせて静かに苦笑した。傍目に見えるものはそうだとしても、上司にあれだけ満足そうな顔をされれば、部下たる彼らに口出しする余地は欠片だってない。

「・・・・・・・・このままの勢いで、そのままキスとかどうだろう?

―――ドラム缶の上から弾き飛ばされた青い作業着の男の顔には、叩きつけられたレンチの痕がくっきりと浮かび上がっていた。


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writing date  09.01.23    up date  09.02.01
なげーよ。