「――・・いきなり、どうかしたんですかい?」
「え、ああ・・・『千切れるほど抱いて、朽ちるまで愛して』?」
天気は快晴。空は青く澄み渡り、浮かぶ雲が優雅に泳いでいる。天高くを旋回する鳶の声があたり一面に響く道の途中。街道から少し脇に入った人気の多くないその道端の、大木がもたらす影で少しばかりの休憩を取っている最中、はごそりと荷物をひっくり返した。ここまでの道の途中で客の一人に手渡された読本を掲げ、広げたページをたまたま声に出して読んだにすぎないのだけれど――読む前に内容を一度考えるべきだったかもしれない。
「さっきのお客さんの一人がやるっていうから、とりあえず貰っといた」
「ああ、道理で。が欲求不満にでも、なっちまったのかと思い「変態。色魔」
―――冷静に考えたら、よく意味も考えずそんな台詞を声に出して読んだ自分にも非があるのだけれど、とりあえずそれは置いておく。それにしても、すごい台詞だ。ぱらぱらと捲って目に付いたものを読んだだけだから、前後がどういう話になっているのか定かではないが、それでも。・・・ちらりと目に入りそうになった挿絵は、見ないほうがいいのだと思う。きっと、多分。
「てかさー、こんな事言われたら引かない?」
「・・男冥利に尽きるってもんじゃあ、ないですかい?」
「うん、薬売りなんか忘れてない? 俺、女だよね? 男冥利に尽きるかどうかなんか、わかるわけないよね?」
もしも自分が男だとして、言われたら――・・そう考えるとぞくりと悪寒が走る。そんな、そこまで責任取れません!と脱兎の如く逃げ出すこと請け合いだ。ある意味、この回答が一番酷いのかもしれないけれど。
「薬売りは? 言われたらどーする?」
「・・据え膳食わぬは男の恥、ですから」
「だろうね。そう言うと思った」
一体どういう状況でこんな台詞を吐くのだろう、と考えてみる。正直、さっぱり想像のつかない世界だ。言葉の裏側に潜むものが、本当に全て愛情なのかと疑いたくなってしまう。ある側面では、全く信用していないことの現われなんじゃないかとか、ただ相手も自分も縛りたいだけなんじゃないかとか、そんな穿った見方しか出来ないのは経験値不足からだろうか。それともただ、自分が捻くれているだけ? 自分で認めるのはむなしいが、確かにそれも一理あるかもしれないと思ったとき、薬売りの纏う空気が緩んだ。奴の口元が、ほんのわずかに笑んでいる。
「さっぱりわからない・・・って顔、してますぜ?」
「うん、全然わかんない。あんな台詞を言う側も、言われて嬉しいほうも」
「――だったら、一度試してみちゃあどうですかい?」
一陣の風が、薬売りの着物をはためかし、その緩く結ばれた髪を弄んで通り過ぎていく。一瞬でも―― 一瞬でも、見惚れてしまった自分を埋めてしまいたい。すぅと合わせられた奴の視線に掻き消され、見失った言葉を探すのに思わぬ時間がかかる。・・・くそぅ、また遊ばれた!
「になら、千切れるほど抱かれるのも悪かない」
「アホなこと言ってないで・・・・ってあれ、俺そっち?」
「おや、希望がおありですか?」
「いや、普通だったら・・・・・・・・って馬鹿、そうじゃない!」
「言い出したのは、のほう・・ですぜ?」
「・・うるさい色魔」
「――ほぅ、それじゃあご希望に沿わないのは、薬売りの名折れってもん・・ですね」
「気付いて薬売り、その行動が名折れだぞ! ・・さぁどうぞ、みたいな顔しても無駄だからなコノヤロウ」
「でもさ、薬売りなら言われたことあるんじゃないの? 同じような台詞」
「同じような――とは?」
「んー、なんていうかこう・・すごく熱烈な睦言とかさ」
休憩途中に呼び止められ、その場で数人の客に薬を売り終えたとき。少し離れたところをからそれを見て、最近食べたくてでも我慢していた金目鯛の煮付けをねだってみようかと思いつつ、薬箱を背負いなおしたのを合図にその隣へ駆け寄る。女の人が寄ってきたときには隣に残って薬を勧めたりすることもあるのだが、男の人のときはそういうわけにもいかないことがある。勿論、普通に普通の薬を求めに来た人の場合には別に憚ったりしないけれど、そうじゃないとき――薬売りに言わせれば、自分はどうもそういう空気を悟るのが鈍いらしく、先に気が付いた薬売りに袖を引っ張られるのを合図にそそくさと逃げ出す。
「、客を前にしたとき、俺があんたの袖を引いたら・・・少し離れててもらえますかい?」
「なんで? 最近邪魔してないじゃん」
「・・・目の前で、春画やらを堂々と広げても・・いいんですかい?」
おかげで、例のブツを薬売りが客に提示するより早く避難できる。薬売り様様だ。
「俺としちゃあ、の口から“睦言”って言葉が出てきただけでも・・驚き、ですがね」
「それはなに? はぐらかそうとしてるのか、もしかして」
「・・・・・ばれちまいましたか」
まァ、無いと言えば嘘になるような、あると言えば嘘になるような・・・と、まるで歌でも詠むように薬売りが言葉を紡ぐ。ぼんやりと中空を見つめるその横顔は、相も変わらず表情を読ませない。このまるで浮世絵に描かれるような男に囁かれた言の葉と、誰もが羨むような艶美を持った男が囁いた言の葉とでは、どちらのほうが多いのだろう。――とりあえず、想像のつかない世界には違いない。
「『一晩だけでも』とか多そー」
「一晩だけなら、何も困ったことはありやせんぜ」
「・・・・ああうん、どういう生活を送ってきたのか丸わかりだよね、今の言葉で」
「これまでで一番困ったのは――・・『この先ずっと』 ですか、ね」
「・・・・・」
「・・? どうか、したんですかい?」
思わず、足が止まってしまった。薬売りの口から零れた言葉は、温度を感じさせなくて。まるで「ああ、いい天気ですね」とでも言いそうな声音で。そういう物言いをするのは少なくない薬売りだけれど、でもだからこそ、心臓がきゅうと痛む。喉に呼気が詰まって苦しくなる。鼻の奥がツンとして、奥歯を噛み締めてやり過ごす。
「・・・ごめん、」
「何を、謝ってるんですかい?」
この人は、一所に留まることなど許されないのだ。
「――・・謝ることなど、ありませんぜ?」
「・・・うん」
「今は、もいるじゃあ・・ありませんか」
くしゃりと頭を撫でる薬売りの掌が温かくて、頷くことしか出来なかった。
「そういえば、あの本は客の一人に貰ったと・・言ってましたかね?」
「え、ああうん。なんか『大変だろうが、頑張れよ』って」
「・・・・・ほぅ」
「『これでも読んで、勉強しな兄ちゃん』って言われた。・・どーゆー意味?」
―――あの本が普通の春画ではなく・・・衆道を扱ったものだったなんて、知りたくなかった。
novel
036:千切れるほど抱いて、朽ちるまで愛して。.....鴉の鉤爪 / ざっくばらんで雑多なお題(日本語編)
writing date 07.11.26 up date 08.01.15