俺はが好きならしい。
沖田の身に降りかかった、彼自身予想もしないそのイベントはと隣の席になったことに端を発している。
それまでは沖田の中では、3Zとしては珍しい"真面目な学級委員"でしかなかったのだが、
隣の席になり会話を交わすようになって、彼女の3Zとしては非常に珍しい落ち着いた雰囲気や、その話し口調はひどく心地よかった。
前にやった模試の結果が返ってきて、全身全霊で拒否するのその成績表を無理やり奪った。
6科目の偏差値が示されたレーダーチャートには1箇所、明らかに伸び悩んでいるところがあった。DOWN↓↓という文字が目に痛い。
「・・・国語の成績、イイんですねィ」
「それはわざと見ないフリしてくれてるのかな、沖田くん。逆にものすごく痛い配慮なんだけど」
「解き忘れた問題でもあったんですかィ? 数学」
「・・・・数学、苦手なの」
は数学が苦手で、国語が得意。俺は国語が苦手で、数学が得意。利害の一致、というやつだった。
その日の授業や宿題なんかでわからないところがあったら、互いに質問する。
時にはどうしてもと頼まれたり、頼んだりして放課後まで居残ることすらあるほどに。
「これは、こう式変形して・・・・で、ここでこの公式に当てはめればいいんでさァ」
「・・あ・・・!」
初めのころはただ、のこの表情の変化は面白いもの、興味深いものなだけだった。
わからないわからないと呻いていたに説明してやり、彼女なりに納得がいくと途端に表情を明るくする。
はいつだって冷静で、慎重。
彼女には大抵の場合、人好きのする笑みが浮かんでいるがそれは"笑顔"とはまた少し別のものなのだと、俺はこうして質問をしあううちに知った。
「じゃあ、この問題は・・・・・この公式使えばいいの?」
「お、分かってきたじゃあねェですかィ」
「! やった」
この顔だ。
いつもその場その場に応じた表情をしてみせるの、ある意味鉄壁の防御がぼろりと崩れた、この顔。
それは普段の彼女からは想像もつかないくらい無防備で無邪気な、高校3年生とは思えないこの表情は、まるで見てはいけないものを見てしまったような気にすらさせるくらい、"素"で。
初めて目の当たりにしたときはイケナイことをしているような、身の置き場のない思いに駆られたものだが―――今では、この顔を見るために俺は動く。
+ + + + + + + + + +
「(・・、まだ残ってんのかねィ)」
今日は偶然、部活が早く終わった。普通に稽古のある日だったのだが、部長である近藤が瀕死の重傷を負っているのなら仕方がない。
帰りのHRのときにさり気なく、のスケジュールを聞いてみて正解だった。
「今日も部活ですかィ? 」
「休み。だから今日は、沖田くんに教えてもらったところとか、残って勉強しようと思ってる」
「そうかィ・・ま、ほどほどに頑張ってくだせぇ」
「沖田くんこそ、部活頑張ってね」
西の空は太陽の茜色をまだ残しているものの、東の空に広がった群青に今にも飲み込まれそうだ。
すぐそこまで夜が触手を伸ばしている。
道場から校舎を見上げ、教室から漏れる光を眺める。3Zはまだ煌々と明るく、それが俺にがまだ教室に残っていることを教えてくれた。
昼間はなんてことないのに、光がないだけで学校はこうも表情を変える。
陰鬱とした空気の溜まった階段をのぼり、自分ひとりの足音だけが響く廊下を歩く。
と、ある考えを思いついて俺は久しぶりに、履き潰している上履きのかかとに元の役目を果たさせてやる。かかとを踏まずに歩くだけで足音は随分と存在を闇の中に隠し、少し気をつけて歩けばひたひたという小さな音がするだけだ。
「(・・・きっと、驚きまさァ)」
目指すはのいる3Z。
通いなれた教室までの距離をこんなに長く、そして待ち遠しく思うことがあろうとは。
とくんとくん、という心音がうるさい。甘い緊張に指先が震える。
そうしてたどり着いた3Zから人の声がして、沖田は反射的にドアの影にその身を隠す。
「教え方、すごく上手だから。沖田くんはどっかの先生と違って」
間違えるはずもなく、この声はのものだ。
の口から自分の名がこぼれると、なんだか違うもののように光を放つ―――いや、今はそれどころではない。
明らかにこれは会話の途中で、ということはつまり、の他に誰か・・。
「おま、それを言うなら"銀ちゃんよりは劣るけど、沖田くんも教え方上手だから"だろーが!」
気の抜けた炭酸飲料のような、コシのないうどんのような、辛くないキムチ鍋のようなこの声は。
「(・・・銀八・・・・?)」
「だったら沖田くんの国語の成績、もっと上がるはずだと思うけど」
「細けェことは気にすんな」
の声で、の言葉で・・・確かにそれは間違いないのだけれど、まるで初めて聞くような気分だ。
俺の知らないが、ドアの向こうで銀八と向き合っている。
「・・まぁ、とにかくアレだ。男は皆オオカミだから、油断しないよーに。あんな顔してっけど、先生は沖田の奴はかなりオオカミだと思うわけよ」
「・・ああ、そういうこと」
「な、なんだよ? "そういうこと"ってのは・・」
「小テストの採点やらあるはずなのに、わざわざ放課後教室まで先生が来て長話した、その最終的な目的が今やっと掴めたってこと」
「・・・・・」
「先生、嫉妬は見苦しいよ」
心臓が、止まったかと思った。
「・・・るせー、そんなんじゃねーっつの。ただ俺は、に男の危険ってやつをだなァ・・」
「はいはい、わかりました。わーかーりーまーしーたー」
「おま、なにその可愛くない態度!?」
「で? 言われたとおり、お母さんには友達とファミレスでご飯食べてから帰るって連絡しましたけど。どうしますかー、坂田先生」
「よし、じゃあ時間勿体ねぇし・・行くか」
「はーい」
俺は咄嗟に、隣の教室に転がり込んだ。
気付けば外はもう真っ暗で、夜が世界を包んでいる。机と机の間に身を潜めれば、夜が俺の姿も闇に隠してくれた。
身体が闇に飲み込まれるのと反対に、叫びだしたくなる衝動を唇を噛み締めて必死に抑えこんで、じっと耐える。
頭の芯が痺れるような激情が体中を駆け巡る。
ぺたぺたと廊下を歩いていく二つの足音。
そっと目を上げたときに一瞬だけ見えたは、俺が見たいと望んでいた無防備で無邪気で・・・相手への信頼に溢れた、あの顔をしていた。
ただ、ぐうたらでやる気のカケラもなくて死んだ魚のような目をした天パの隣を歩いているだけで。
(俺はからあの顔を引き出すために、今までしたこともなかった数学の予習までしているのに。)
俺を包み込む夜はあんまりにも静かで、世界には俺しかいないような錯覚すら覚えるほど。夜が羽織った闇のマントは優しい。
今は―――・・今このときだけは、このマントに包まれて世界から消えてしまいたかった。
「(・・・俺ァ・・こんなに、のことを・・・・)」
この思いが届けばいい。
企画 Midnight dreams さまに捧げます。参加させていただいて、ありがとうございました!
お題 "月影届かぬ夜すら越えて"はhazyさまよりいただきました。
writing date 07.05.11 ~ 07.05.13 up date 07.05.19