Kano-neko.
9-2
白い糊状の水分がふつふつと沸き立っている。炊飯器に残っていたご飯でやわらかめのお粥を作るため、ジェイドはキッチンに立っていた。子ども部屋では顔を真っ赤にした彼の養い子が病魔と闘っている。薬を飲むためにも、何か少しくらいは胃に食べ物をいれなければならない。朝からまた少しでも熱が下がっていればいいのだが
――塩加減をみるために味見をしたとき、ジェイドはそこでふと気がついた。そういえば、昨晩研究室でちょっとしたものをつまんでから何も食べていない。帰ってきてすぐ病院へ向かい、一晩付き添って家へ戻り、子どもが落ち着くのを待って気がついたら今である。忙しかったというより、ひどく単純に食事のことを忘れていた。
どうせキッチンに立っているのだし、何か簡単なものを作ればいいのだろうが、どろどろに溶けたお粥しか口にできない子どもの前でそれをするのは気が引けた。あの子どもは食に関してなかなか貪欲なのである。困りましたね、と大して困った風もなくあごに手を当てたジェイドの耳は、近づいてくる小さな足音を聞き逃さなかった。キィ、とドアがわずかに軋み、隙間から子どもの姿が覗く。
「・・じぇいど・・・・、」
「おや、起きましたか。具合はどうです?」
「ん・・、さっきより、らく」
キッチンの入り口でぽつねんと立っている子ども。その額に手を当て、ふむ、と頷いたジェイドはそのまま手のひらを滑らせて子どもの頭をひと撫でした。
「一度熱を測ってみてください。・・ああ、それより先になにか羽織らなければ」
「・・のど、かわいた」
「・・・・・・・・・。わかりました、上着を取ってきてさしあげましょう」
大人しく頭を撫でられていた子どもが、俯き加減のままくすくすと笑んだ。どうやら今のは天然ではなく故意だったらしい、まったくこういうやり口はどこで覚えてくるのやら。回復の兆しを読み取り、彼は苦笑を微笑にすり替える。
「向こうの机にペットボトルがありますから、それを。冷たいのはまだやめておいたほうがいいでしょう」
子どもの部屋から上着を取って戻ってきたジェイド。ソファに座った子どもは首だけで彼を振り返り、体温計を差し出した。デジタル表記の体温計は 38.2℃を示している。決して低い体温ではないが、これでも昨夜に比べたら随分下がったほうだろう。やはり通常の活動時間に入ったためか、朝帰ってきて測ったときより少し熱が上がったようだ。
「まだもう少しかかりそうですね。午後もしっかり休むように」
「はあい」
小さな肩に上着を掛けて、ソファ越しにジェイドは子どもを覗き込む。
「、食欲は戻りましたか?」
「・・・・わかんね」
「頂いた薬を飲むためにも、少しお腹に入れてみてください。お粥を作りましたから」
子どもが一口ずつ粥を口に運ぶのを、ジェイドは対面の席でぼんやり眺めていた。火からおろしたばかりの粥から昇る白い湯気。少しずつレンゲにすくって尖らした口で息を吹きかけ、はふはふしながら子どもは咀嚼と嚥下を繰り返している。「火傷しないように気をつけてくださいね」 まだ頬の赤みはとれないが、それも昨夜に比べれば大分マシだ。不意に、黒曜石の焦点がひたりとジェイドに合わせられる。
「なにか?」
「・・・ジェイドは、たべないの?」
まっすぐ見上げてくる視線に一瞬言葉を飲んだのは、ジェイドのミスだ。
「私は先程いただきましたから」
「うそだ」
「根拠は?」
「・・・・、なんとなく」
これだから子どもという生きものは
―――。レンゲの先を口に含み、チラチラ向けられる上目遣いを全弾回避しながらジェイドは漏れそうになるため息を飲み込んだ。“なんとなく” の一言で大人のプライドやなけなしの気遣いを一蹴されるのは本意ではない。更に言うなら、自分の返事でこの子どもが申し訳なさそうな顔をするのも本意ではなかった。ジェイドは軽口を開く。子どもの見抜いた真実をはぐらかすために。
「おや、自分のことより私のことを気にかけてくださるとは。いやー、愛されてますねぇ」
「・・・・・・・・・ばっかじゃねーの」
「馬鹿はどちらですか。あなたが今やらなければならないことは、一体なんです?」
「・・かぜを、なおすこと」
「でしたら、自分のすべきことはわかりますよね?」
「・・・・・・・・・・・・」
「ほら、ボーッとしていると折角のお粥が冷めてしまいますよ」
それから子どもは、器の中によそった粥をすべて食べ切り、「ごちそうさま」 を言うまで一言も口を開かなかった。ジェイドも無言のまま新聞を広げる。ダイニングの窓から見える景色は、燦々と降り注ぐ陽光に照らされて明るく輝いていた。穏やかに吹く風がカーテンを揺らす。基本的にじっとしていることの苦手な子どもだ、網戸越しに空を眺める瞳が外を恋焦がれていた。
「全部食べられたようですね。感心です」 多少甘い味付けがなされているであろう子供用の粉薬を渡す。
「その分なら回復も早い、・・・・と期待しましょう。ちゃんと薬も飲んでくださいね」
「・・わかってるよっ」
真っ赤な頬を膨らませ、憮然とした表情を浮かべた子どもの頭を撫でる。食器を下げ、流し台に片付けたジェイドは横目で子どもが薬をきちんと飲むのを確認していた。机の上でとんとん、と袋の中の粉薬を揃え、端からビリビリ裂いていく。右手に水の入ったコップを、左手に開封した薬を持って決意と共に生唾を飲み込んだらしい子どもは、ぎゅっと目をつぶると一気に薬を口の中に放り込んだ。間髪いれず水を流し込み、口をもごもごさせては嚥下を繰り返す。眉間に刻まれた皺の数が、薬の味をジェイドに教えた。
「よく出来ましたね、」
じゃあ、体があたたまっているうちに部屋へ戻りましょうか。そう続けようとしたジェイドの言葉は、子どもにかき消されてしまった。流し台で水を扱うジェイドの腰に、やわらかな温もりがしがみついている。薬を飲んだのを確認して、手元に視線を戻していたのがいけなかった。子どもの思わぬ行動にジェイドは言葉を探す。
「水がかかってしまいます、離れなさい」 いやいやをするように、子どもがその額をこすりつける。
「・・、急にどうしたんです? きちんと言葉にしてくれなければ、わかりませんよ」
「・・・・あ のさ・・・、ジェイド、きょう・・・・・・・・・・」
「
―――・・?」
「・・っ、やっぱ、なんでもないっ」
そう言うわりに、子どもはジェイドから離れようとしなかった。彼の細い体躯に回された両腕と埋められた鼻先。子どものつむじを見下ろして、ジェイドはふうと息をつく。
「まったく・・・あなたという子は、」 しゃがみこんだジェイドは、片腕で子どもの腰を抱くように小さな体を掬い上げる。
「口にしなければ、伝わることだって伝わりませんよ?」
急に視線が高くなったことに驚いたらしい子どもは目をぱちくりさせながらジェイドを見下ろし、肩口のシャツを手のひらに握りこんだ。だって・・、と続けようとして子どもは口ごもる。物言いたげに伏せられたまぶた、きゅうっと真一文字に結ばれたくちびる。ジェイドのくちびるが、対照的な弧を描く。
この子どもが思いのほか寂しがりやで、しかもそれをおいそれとは口にできない頑固者であることを、ジェイドはよくよく理解している。子どもの部屋で抱き上げた体を下ろし、何を言わずとも自分からベッドにもぐりこんだ子どもを追った。布団をかけ直し、ベッドの縁に腰掛ける。そうしてごくごく当たり前のように、ジェイドはそこで本を広げた。深紅の瞳がするすると文字列を辿る。
「・・あ、の・・・・・・ジェイド?」
「なんです?」
「なに、してんの?」
「本を読んでいます。・・見て分かりませんか?」
「わっ、わかるけど! そうじゃなくて・・・、」
「おや、違いましたか? てっきりは、これを望んでいるものだと」
「・・・・・!」
熱ではない何かのせいで顔を真っ赤にした子どもが、ぱくぱくと金魚のように空気を食む。
「私の勘違いだったら、そう言ってくれて結構ですが・・・・・・・どうします? 」
ごそごそと布団の端がうごめく。ジェイドは目の端にそれを留め、血の色をした紅玉を細めた。小さな手がジェイドのシャツの裾をそろりそろりと握る。自分から手を伸ばし、甘えることが苦手な子ども。差し伸べられた手を、恐る恐るとしか掴めない子ども。けれど、一度手をつかんでしまえばそう簡単には放さないだけの我の強さを見せる子ども。うとうと、と。早くも眠気に溶け始めた夜色の瞳がジェイドを見上げる。
「今わがままを言わないで、いつ言うつもりです? こういうものは言ったもん勝ちですよ、」
「・・・・・・・・・・ジェイド、今日・・どっか行くの、なし」
「
―――はい、承知しました」
さて今、本当にわがままを言ったのはどちらでしょうねぇ。ジェイドの呟きは子どもの寝息と溶けていく。
novel
writing date 091022 up date 091017
見切り発車ってこえぇ(まさか続きが書けるなんて思ってもみなかった)