close my eyes
IF STORY
はすごく寝相が悪かった。
暑い夜にはぼくの都合も考えず、タオルケットをベッドから蹴り飛ばし、大の字になってぐうぐう寝ていたし、寒い夜には赤ちゃんみたいに手足を胸にギュッと抱いて、まあそれだけならいいんだけど、毛布の類までぎゅうぎゅうに丸め込んで眠るから、寒くて起きたら毛布がぜんぶとられていたなんてことは当たり前。
それでも、寒い日にはどうにかこうにか毛布を取り返し、自身を抱え込んで眠れば問題はなかったのだけれど、暑いときは最悪だった。文字通り “大の字” になって眠るからぼくに残されたスペースはあとわずかなのに、寝苦しいのか、ちょっとでもくっつこうとすればの肘や膝がクリティカルヒットして、ぼくはたまに、シクシク痛むみぞおちや喉仏をなだめすかしながら居間のソファで一晩過ごしたりした。なにかの護身術をやっていたとかいう話は聞いたことがなかったのに、どうしてあんな的確に急所を狙えたんだろう。本当に不思議でならない。
せっかくちゃんとベッドがあって、そこで好きなひとが眠っていて、別にケンカしたわけでもないのに、一人寂しくソファに寝転がるのはむなしい以外の何物でもなかったし、無意識にしたこととはいえもすごく恐縮してしまって、そんな朝はの土下座から一日が始まるのが常だった。ぼくだって怒るに怒れないし、でも起き抜けに感じる寂しさはごまかしようがなくて、なんというか、すごく非生産的だったわけだ。…ノボリにもすごく笑われたし。
そんなだったから、大きめのベッドを新しく買おう、という案はすんなり受理された。もともと、ぼくとノボリが暮らしていたマンションにが転がり込んで(正確には引っ張り込んで)きて、代わりにノボリが違う階の部屋に引っ越していった形だったから家具とかはあんまり新調していなくて、仕事帰りとか、お休みの日とかに二人で家具屋さんに行くのは、なんだかそれだけですごく楽しかった。ベッドのサイズをどれにするのかなんて、二人で真剣に論じ合ってる姿は我ながらバカバカしかったけれど、こうやってだんだん家族になっていくんだなあって感じがたまらなくしあわせだった。
――被害を拡大させないためにできる限りの大きなサイズを推すと、受ける被害を最小限に抑えつつ、でもできるだけくっついていたいぼくとが論戦を繰り広げる様を見て、ノボリが一言、「一生やってろ」 と吐き捨てたのがなんだかとても懐かしい。
本当を言うならの言うサイズのほうが安心して眠れるのかなって思わなくもなかったのだけれど、結局ぼくの案にして正解だったと思う。
だってあんなの、一人で使うには広すぎる。
――まただ、とぼくは独りごつ。
何度試しても起きたらこうで、ぼくは朝が大の苦手になった。右側が大きくぽっかりとあいたベッド。はダイナミックにスペースを使うコだったから、ぼくは知らない間に左側三分の一くらいを使って眠るのが当たり前になっていて、それは、が元の世界に戻ってしまってからも変わらなかった。
夜、真ん中で寝たって、朝起きたらベッドの隅っこで右側を向いている。夢から醒めてまず目に入るのは使うひとのいない枕で、ぼくは無駄に空いたスペースを抱きしめて眠っている。自由に伸ばせる手足を、けれど寒い日によくがしてたみたいに体の中心にぎゅうっと丸め込んで、凍った心臓を溶かしてからじゃないと起きられなくなった。
寝起きのは基本的にいつだって機嫌が悪くて、ばっちり目は開いているのにシーツにくるまったままたっぷり三分は微動だにしなかったから、ぼくはその後ろ頭にそおっとキスをするのが一日の始まる合図だった。そのうち、のそのそ起きだしてきたころにはの機嫌はいつも通りになっていて、ぼくがその部屋で着替えているのを気に留めることもなくカーテンや窓を開け放ち、パジャマ姿のままで朝食作りに取り掛かる。
カーテンの向こう側はまだほとんど夜だ。みんなより少し早く出勤する習慣は変えなかったから、朝もやに沈む街の姿はと一緒に見た光景とほとんど変わらない。……色あせて見える? そんなことは全然ない。ぼくの目に映る景色は今も昔も色鮮やかで、あの頃と同じように、変わり始めた空の色がいちばん好きだ。
がこの世界から忽然と姿を消しても、朝になれば太陽が昇ったし、夜が来れば月が浮かんだ。季節は流れて、当たり前に時間が進む。ぼくは今でもサブウェイマスターとしての務めを果たしていて、いまだにスーパーダブルもスーパーマルチも突破されたことがない。の後任には彼女の後輩がついて、仕事のやり方をから学んでいたらしいそのコは、鉄道員たちから寄せられる無理難題に四苦八苦しながらも立派に仕事をこなしている。
変わらない。ほとんど何も。
前はたまに、その新しく鉄道員たちの補佐についたそのコのことを 「」 って呼んで、場を凍らすクラウドがいたりしたけど、もうそんなこともない。腫れ物にでも触るような態度でぼくに接していたみんなも、もうほとんど普通にしてくれる。ポケモンたちとすっごい勝負をして、お仕事して、おうちに帰って。すべてが滞りなく進んでいく。まるではじめからなかったことみたいに。
「いただきます」
どんなに眠くて、あと五分でも十分でも長くベッドにもぐりこんでいたくても、は必ず朝ごはんを食べた。ぼくはそれまで朝ごはんをしっかり食べるっていう習慣がなかったのだけれど、食べないと力が出ないんです、っていうが彼女自身のために用意したごはんが、もう、バカみたいにおいしそうに見えてしまって、一人でもくもくとごはんを食べるにお願いしてからは、ぼくも一緒に食べるようになった。
ご飯を食べることは好きだけど、朝はお腹がすいてないから要らない。そんなことを考えてた、昔のぼくのバカ。向かい合わせの席に座って、つやつや光る炊き立てのごはんと、豆腐と長ネギ、たまに大根が入ったお味噌汁、あとはお漬物(が持ってきたぬかどこは、たぶん魔法が使える)だけのとても簡単な朝ごはんはそのくせ本当においしくて、びっくりしてしまった。朝ごはんを食べる習慣がないのはノボリも同じだったのに、たまにうちに泊まった朝はちゃっかり一緒に食べてたぐらいだ。
しっかりちゃんと朝ごはんを食べる。と一緒に生活するようになってできたこの新習慣を、ぼくは変わらず続けている。初めて自分ひとりで漬けたぬか漬けは、まだほとんどきゅうりのままだったけれど、今ではおいしく漬けられるようになった。…が出してくれてたやつのほうがおいしかったような気もするけど、は最後の最後に失敗したから、ぼくの勝ち。仕込むだけ仕込んで、出すの忘れて、あんなへにょへにょですっぱくてしょっぱいきゅうり、食べられないもん。
「ごちそうさま」
ノボリは相変わらず、同じマンションの、別の部屋を借りて一人暮らしをしている。元々ここはノボリとぼくの二人で暮らしていた部屋で、が元の世界に戻っちゃった今、てっきり越してくるのかと思っていたのだけれど、そう言ったぼくにノボリは 「わたくしにもいい人ができたら、このほうが都合がよろしいですから」 と答えた。まあそれもそうかと思ったからノボリの言うとおりにしてるけど、見たかんじ、女のひとを連れて帰ってきた様子はなく、というか女のひとと付き合っている素振りもないから、ぼくはちょっと心配している。ノボリに言ったら、たぶん 「余計なお世話です!」 って、真っ赤にした顔で怒られるんだろうけど。
歯を磨いて、最後にもう一度ねぐせとひげの剃りのこしがないか確認して、鏡の前でにっこり笑う。ルールを守って安全運転。ダイヤを守ってみなさんスマイル。それがサブウェイマスターのぼくだ。
この時間、ポケモンたちはまだモンスターボールのなかでぐっすりだ。だからみんなのごはんはギアステーションであげることになっているのだけれど、ひとりだけ、ぼくと同じ時間に起きてるコがいて、朝はいつも彼だけボールから出してあげることにしている。こうしないと後でものすごく拗ねて大変なのだ。怒ったときより、拗ねたときのほうが扱いが難しいのは、たぶん親に似たのだと思う。
ふたりで一緒におうちの戸締りをしたあと、カバンを持って、靴を履いて、しんと静まり返った部屋を振り返る。まぶたを閉じて、そこにいるはたいてい笑っていて、でも本当は笑っているばっかりじゃなくて、あくびしてたり、ちょっと機嫌が悪かったり、申し訳なさそうだったりしてた。そんなことくらいわかってるし、やろうと思えばすぐ思い出せるけど、でも、本当の本当にはそんなふうにしてたかって言われると、もうぼくは自信が持てない。いろんなことが、あたまの中でぜんぶキラキラした何かに置き換えられて、本当ならきっと記憶にも残らない、全然なんでもないことだったはずなのに、ぜんぶ、ぜんぶ、あたたかくて、まぶしくて、そういう、何か全然ちがうものに変わっていく気がして、それがすごく怖い。
彼がぼくの服の袖を引く。黄色くてまあるいひとみがぼくを心配そうに見上げていて、思わず笑ってしまった。本当に自分が情けない。だって少なくともぼくは、を失ってしまった悲しさや寂しさを、誰かと分け合えるのに。
――…ひとりで来て、ひとりで帰ってしまったは、ひとりで抱えていくしかないのに。
見上げた空が、夜から朝に切り替わろうとしている。昔と変わらない空。ここしばらくずっと雨が続いていたから、ギアステーションの利用者数も多めだったのだけれど、この空色なら今日は少し落ち着くかもしれない。夜に降りやんだ雨のせいで空気はとても湿っぽく、濡れたコンクリートのにおいが鼻をついた。でも玄関先から見えた街路樹の緑はとても色濃く、瑞々しくて、やがて訪れる夏の気配を教えてくれる。
鍵をかける前にもう一度部屋を覗き込み、ぼくは笑う。
「いってきます」
いってらっしゃいの声は聞こえない。
ツイッターのやりとりの中から。平井堅の 「瞳を閉じて」 をイメージして。
2012/06/24 脱稿
2012/06/30 更新