軒下からそう叫ぶ。樋から落ちてくる雨粒はこれまで雨に打たれていた身にも冷たく、首筋や顔に水滴がかかると体が反射的に震える。後ろで一つに束ねた髪を雑巾でも絞るように捻れば、手の内に水が溢れて地面に散った。降りしきる雨のせいで、音は聞こえない。ふと見遣った先で、薬売りは朝露に濡れた花菖蒲の色へと様変わりしてしまった頭巾を手に、己の前髪をぼんやりと持ち上げたりしている。淡い飴色をした奴の髪はたっぷりと水を含んで、ぽたりぽたりとその先から雫を滴らせ、頬をすぅと雨粒がなぞる――・・・

「は、くし・・ッ」

・・・・・・あれ、ちょ、いま俺クシャミなんかしてないよ? 俺じゃないよ言っておくけど!

「・・何を、考えておいでで―――くしっ」

知っているだろうか。本当にいい男は、クシャミをする姿さえ色っぽいのだと。




当然といえば、当然なのだ。宿屋で部屋を取るとき、宿賃をケチるために歳の離れた兄弟を装ったり、道行く客や商人に問われたりしたとき、面倒くさい上に意外と便利なので男だと嘘をついたりしても、は紛うことなく女である。いくら男と勘違いされようと、帯を解けばあるのは女の体。ならば――お美津さんが自分に差し出す着物は、女物に決まっている。

――ほう・・なかなかに、面白い」
「面白いゆーな」

「・・・とは言うものの、実際面白いよなこの格好」

は自身の体を見下ろし、差し入れのチョコチップクッキーを摘みながら言った。女の格好をする自分が自分で珍しく、着物の袖をつまみあげてけらけら笑う。おそらくこの先こんな格好をすることなどほとんどないだろう・・・・だったらいっそ、写真でも残しておいてやろうか。

「そうですか? 似合っていると思いますが、ね」
「そりゃどーも」
「・・随分と、投げやりじゃあ ありやせんか?」
「そーおー? あ、ゴメンけど俺次の準備あるから先行くわ」
「ええ、ではまた」

「まったく・・・の鈍感さは、演技などではありません ね ―――・・くしっ」




――・・

体を揺さぶられ、思考に入り込んでくる低い声にははっと目を覚ます。覗き込んでくる瑠璃色の双眸が、意識を現へと引き寄せた。灯りを落とした部屋には、薬売りが手に持った火があるだけで、その仄暗い明るさがしかし、闇に慣れた目には酷く眩しい。咄嗟に勢いよく跳ね起きて、現状把握を、

ごっちィイイイン――・・・

「っ! ・・ぃ、いってェエエ!!」
「・・・」

咄嗟に勢いよく跳ね起きて、その鈍い音をマイクが拾い上げるほどに二人が額をぶつければ、苦笑というか失笑が周囲から漏れるのは仕方のないことだと、それはにもよく分かる。よく分かる、よーく分かるが、しかし。

「ちょ、笑ってんなそこ! 痛いんだぞ、これほんっと痛いんだぞ!」

じんじんする。漫画であればそこれそ星が飛び、しゅううと煙が立ち昇りそうなほどの強打。あまりの痛みに涙が浮かぶ。あー、ほんと真っ赤になってますねェ。くすくすと堪えきれないように笑みを零す目の前のメイクさんの手に噛み付いてやろうかと、半ば本気では考える。――先程から一言も、痛いの一言すら零さない薬売りからじわじわと、背筋が凍るような冷気が漂ってくるような気がするなんてそんな気のせいだ気のせいに決まっている気のせいであってくださいお願いします300円あげるから!

「・・・・、ちょっと、よろしいですか」



―――・・・それじゃあ、手遅れ、なんですよ」

視界がいきなり、反転した。突然の衝撃に耐え切れず、再び枕に後頭部を埋める。見上げた目に映るのは、暗い天井と薬売り。枕元に置かれた行灯の火が揺れると、薬売りの顔に出来た影も揺らいだ。匂い立つほどの色気に、は知らず喉を鳴らす。

「こ・・今度はどういう、嫌がらせですか」
「嫌がらせとは、また・・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・ちょ、薬売りの台詞まだ続きあるよ!」
――・・え、」


カーット、という監督の声が響く。どしたの薬売りさん 珍しいねー、というよくNGを出す自分に対するあてつけにしか聞こえないフォローが辺りに響く中、薬売りはまだ薄暗い照明の中でむっつりと黙り込む。続きの台詞を思い出そうとしているのだろう、なにやら難しい顔をするのは一向に構わないのだが、

「・・・あの、ちょっといいですか」
「何、ですか?」
「とりあえず、身動き取れないんで上からどいてもらえます?」



彼女たちは奪う、人の夢を。見ることすら許されなくなった夢を、求めて彷徨うのだ。

――・・ 真 を、得たり」

退魔の剣は、啼かない。

スタッフの誰かが持参してくれたおせんべいをかじりながら、は次の場面の準備が進む様子をぼんやり眺めていた。終盤に差し掛かるにつれ、否応無くスタジオ内には緊張が満ちてくる。はその空気に対して特別なプレッシャーを抱いたりしないし、萎縮したりするわけではないがそれでも、なんとなくNGを出しがたい感じだけはひしひしと感じていた。

「そういえば、はまた新しく番組が決まったと聞きましたぜ?」

まぁ基本的にNGを出すのは自分で、薬売りは関係ない。自分がちゃんと気をつけていれば、NGはその数をぐんと減らすのだ。

「あーうん、おかげさまでねー。なんていうんだろ、スピンオフ?みたいな感じなんだけどさ」
「へぇ・・それは、それは」
「これがまたすっごい美少年と一緒でさー。いやほんと、我ながら運いいなと思うよ・・・っていひゃい! いひゃいよ、くしゅりうり! なんれいきなりほっへはつまむの!?」

、あなた少し太ったんじゃありませんかい? ――なんていう薬売りの言葉は、もちろん無視した。



「起きろ、!」

ばし、と思い切り頬を張られた。痛みと共に思考に割り込んでくる声が、ともすれば闇に溶け込もうとする意識を引き戻す。じんじんという痛みを引きずり、恐る恐る瞼をこじ開けて――・・

はいOKでーす! 声がスタジオ中に響く。本番独特の張り詰めた空気がすぅとほどけて、も触発されるように息を吐き出した。薬売りの手を借りて起き上がり、へらりと笑う。目線の先には、秀麗な顔立ちをわずかに歪めた薬売りがいる。

「・・痛み、ますか?」
「全然問題なし。見かけどおりじょーぶに出来てるから、ご安心あれ」

思い切り、というのが監督からの指示だったからしょうがない。第一、この程度のことはよくある。だから別に、薬売りがすまなそうな顔をする必要は全くないのだけれど・・・妙なところで律儀だなぁ、とは思う。

「じゃあ、着替えてくるから」

次のシーンのための着替え。白から真朱に着物を替えたときに気が付いた――特徴的な金色の着物が、衣装室からなくなっていたことに。



世界が時を止めて、音が消える。ばくばくと体の中で心臓が激しく打ち鳴らし、生唾を飲み下す音が脳ミソに響く。色鮮やかな絵巻物を解くかのように、記憶が、夢が流れ落ちていく。境目がわからない。夢の始まりとそして、夢の終わりはどこに在る。

「・・・い、行こうか! 薬売り」
「そう・・です、ね」


は大きく背伸びをして、首を回した。長丁場となった今回の 「獏」 も今日で最終日、スタジオを取り囲むのは達成感。ぼんやりとお茶を啜っている薬売りと、差し入れのお煎餅をばくばく口に運んでいる金色を振り返って、はにぱっと笑った。

「今回結構出番合ったよなー。どれくらいぶりだろ」
「フン、大事なのは回数じゃないからな」
「・・・おや、それは俺への 当てつけ ですか」

違う、そんなつもりはまったくない!
首をブンブン振って、その大きな全身を使って否定を繰り返す金色と、ため息と流し目ひとつでそれを受け流す薬売りにはそれぞれ、犬の耳と悪魔の尻尾が見えた気がした。仲いいよね、とは口に出さない――私はまだ、自分の命が惜しいのだから。



Re:up date  08.07.03