0711  disintegration of stockade



多くの人が行き交い、賑わいを見せる大通りから横に伸びる路地。昼間だというのに薄暗く陰気で、鬱々とした空気が支配する影への入り口。真っ当な人生を歩む人間なら到底近づかないその裏路地を、は一人歩いていた。日の当たらないその場所は、底冷えするような冬の寒さをいち早く纏っている。足元から這い上がってくる冷気にはぶるりと体を震わせた。いくつもの角をまがり、闇へと続く回廊をは鼻歌を歌いながら歩く。この場所において、一番の異分子は彼女に他ならない。

「・・・ここ、か」

しばらく歩いたが足を止め、見上げるのは昼間だというのに濁ったオレンジの光を灯し続ける街灯。四方を固める建物の隙間から、空は薄暗く濁っている。外だというのにこの世の何よりも閉塞した空間はいくつもの矛盾を孕みながら、けれど今ここにある。
―――脳裏に浮かぶ、一人の男。

―――・・・高杉」
「呼んだか」

思いがけず返ってきた返事と、全てを圧倒する殺気の塊。咄嗟に体を反転させ、大きく後方へと跳んだの目の前を白い閃光が掠める。研ぎ澄まされた鋼の刃はそれでもの目に美しく、刀を掲げてにやりと口元を歪める男は、それでもなお妖艶だった。

「・・・気付かなかった」
「詰めが甘ェんだよ」

憎々しげに表情を歪めたをよそに、男――高杉は己の刀を鞘へと納めてゆったりとに歩み寄る。視線を合わせまいとしているのか、街灯を睨みつけるにクツクツと笑んだ高杉は、すぅと身を屈めて耳元に低く言葉を紡ぐ。

「俺を見抜けなかっただろう、
「ッ! るっさい、今日は調子悪かった・・・・てかクサ! 高杉お前、すげぇ酒臭いんだけどちょっと!」

耳朶を掠める甘やかな酒の芳香を含んだ声。けれどはそれに思い切り顔を顰めた。下がろうとするより早く高杉の手がを捕らえ、彼女はずるずると引きずられていく。

「うわ、ホント臭い。ちょ、近づかないでもらえます!? くっさー、高杉くっさー」
「言ってろ」

鼻で笑われた。しかも高杉は掴んだ腕を離す気がないらしい。無駄な抵抗は、骨の髄から捕食者なこの男を喜ばせるだけだと本能的に悟って、はされるがままに任せている。大人しくなったに満足いったのか、フッと唇にわずかな笑みを浮かべ、高杉が目の前に突きつけたのは人工的なオレンジの光をやわらかく乱反射する透明な液体。

「な、何・・・・ってコレ、酒?」

受け取れ、と言葉で言わずとも態度で示す高杉から小さな杯を受け取り、鼻を寄せる。立ち昇る甘い香りと、酒の匂い。はひく、と頬を引きつらせ、そしてすぐに高杉につきかえした。

「飲め」
「やだ」
「・・俺の酒が飲めねェってのか?」
「高杉の、とかそーゆーんじゃなくて、俺は酒ダメなの」

の手にあるものよりも一回り大きな杯をぐい、と仰いだ高杉がじろりと彼女を一瞥する。

「それ一杯ぐらいなら大丈夫だろ、飲め」
「やだ。俺、酔うとひでぇもん」
「ヘェ・・? 意外だな、酒乱かお前」
「なんか高杉が言うと変に聞こえる」
「どういう意味だ」
「そういう意味です」

とくとく、と新たな酒が高杉の杯に注がれる。その底で歪むほんのわずかに覗く青空。

「深紅に染まった山もいいが・・・これからの季節、雪と酒も悪かねェ」

酒で湿った唇を、赤い舌がちろりと舐める。笑った、というよりも弧の形に歪められた唇はの目にも酷く蟲惑的だ。そうそうお目にかかれるものではない艶美な男の口から語られる世界の崩壊は、麻薬のようなもの。連綿と紡がれる日常を揺り動かす劇薬。―――けれど彼女に、それは不要だ。

「ふーん・・・そんなもん?」
―――・・つまらねぇ女だな」

む、としたように眉をひそめるの前で、高杉はまた新たな酒で喉を潤した。わずかに仰け反った高杉の首筋で、喉仏が上下する。何をするにも、色香の漂う嫌味な男。

「酒は、俺を――昔を揺さぶるから・・・嫌い」

過去、宝珠、父、使命、白刃、鮮血、力、世界、理、制限、未来、終焉・・・・・それらはいつだって、隣にある。彼女の世界は、いつだって安寧を受け入れない。

「お前、まだ奴らに伝えてねェのか」

きゅ、と噛み締めた唇から鉄の味が広がった。乾燥のせいで割れた唇から、血が滲む。

「・・・・・うん」

二人の間に下りる沈黙。それはまるで雪のように世界から音を奪う。穏やかな水面(みなも)に過去が揺らぐ。匂いたつ甘さが、喉の奥で苦さに変わる。はそれを掻き消すように杯の縁を舌でなぞり、少しだけ酒を口に含んだ。瞬間、口の中に広がる匂いに表情を歪める。

「うへ、やっぱ無理!」
「・・ガキが」
「自覚ありますー」
「奴らには伝えないと・・隠すと決めたのはお前だろう」
「・・隠すって、決めたわけじゃない。喋るタイミングを失ったっていうか・・」
「同じことだ。それを今更悔やむなんてのには、意味がねェ」
「・・・うん」

が口をつけた杯を一気に煽り、それを飲み干して高杉はに背を向ける。舞い込んできた一陣の風が彼の着物をはためかせ、花弁が舞う。闇に魅入られたその背中が路地の曲がり角に消えようとするとき、は彼に言葉を投げる。

「またな、高杉。風邪引くなよー」
「うるせぇ殺すぞ」

彼女の世界はほんのわずかに、けれどそれは着々と。崩壊の準備を始めていた。


writing date  07.10.25   Re:up date  07.12.12