「―――・・あんたはなんにも、わかっちゃいない」
溜息に、ありったけの呆れをのせて。ともすれば哀れみすら感じさせる視線はひどく居心地が悪い。痺れた足を動かしてずり下がりたいのは山々だが、もはやピクリとも動けない。す、と立ち上がった薬売りの手が伸びてきて、己の頬に触れたのを思わず心の中で実況中継してしまった。
「俺も――男のひとり、なんですがね?」
にやりと笑んだ口元はどこまでも妖艶だ。薬売りの掌が頬をすべり、輪郭をなぞり、髪を弄んでいるのを横目で見る。ふわりと風に香る花のにおいは甘く、けれど悪戯な空気を垣間見せる。――つまりは、そういうこと。
「からかって遊ぶには、俺は不適当だと思うけど?」
「・・それはまた、何ゆえに?」
「そりゃだって――俺は兄ちゃんで、兄ちゃんは俺で・・・・・・・って、あれ? なんか変?」
はいカットー、と言う声が響く。ちゃーん、次は頼むよー? と投げかけられる言葉に、またやってしまったとは頭を抱えた。
「これで三度目、ですよ?」
「うー、ごめん。“俺は男で、兄ちゃんは兄ちゃんだから”・・俺が兄ちゃんだったらなんかもう全然違う話になるっての」
「落ち着けば、大丈夫・・ですよ」
「――・・誰のせいで落ち着かないと思ってんだこんにゃろう」
きょとん、と首を傾げる薬売りを心底蹴飛ばしてやりたいと思った。
「ちょ、何してんのお前。今忙しいんですー」
体をひねり、後ろを振り返って「しっしっ」と手で仰いだら・・・・やりやがった。やりやがったよこの天秤! 高く宙に舞ったかと思ったら、ある一点で留まりそして―――
「・・・ッ!」
ちくり、ではない。ぐさり・・・・でもない。どすッ、である。大きく体をビクンと反らせたは、足から背骨を通り、脳ミソでスパークする痛みに言葉を詰まらせる。思わず手近にあった布きれを握り締め、奥歯をギリギリと音がするほど噛み締めて、漏れる呻きと溢れる涙を堪える。ふぅぅ、と肺の空気を全て押し出すように息を吐き出し、火花の散っていない残りわずかな思考で台詞をなぞった。
「・・・いたい。どこまで読んだか、わかんなくなった」
「・・いや、あの? 血・・出てます、よ?」
―――・・・人間、本気で痛い時には声など漏れないのである。
「痛い痛い痛い痛いぃいい! 血ィ出てるんだけどちょっと、血ィ!」
「・・この程度の傷なら、舐めれば治ります・・・よ?」
「いや場面ちがうから、しかも絵面的にすごくヤバイから止めてくれる?」
「まぁ、どうにかなるんじゃないですか? 実際には、文しかないわけですし」
「いや、そういう問題じゃないから。てか血ィたれてる! 誰かはやく絆創膏持ってきて、ばんそーこー! って馬鹿! ホントに舐めようとすんなオイィイイ!」
喩えるなら陽炎。まるで手に届きそうなところにゆらりと現れ、けれど捕まえることを許さない現の夢。
喩えるなら稲妻。・・・・・・・ひ・・ひろ、く? ――え、違う? これ「ひろく」って読むんじゃないんだ?
「わっかんないよ、何だよこれぇ」
机に広げた台本の上に頭をのせ、は情けないこと極まりない声を上げる。ただでさえ漢字だらけで苦労しているというのに、調べてきていない今日に限って読みすらわからないものに出会うとは。
「、どうかしたんですかい?」
「薬売り、これなんて読むの?」
――・・薬売りは、完全に、見て見ぬふりを敢行した。
「・・・あの、薬売りさん? 今絶対台本に目ェ向けましたよね? 見ましたよね?」
「・・さぁ、どうでしょうか ね」
「どんなはぐらかし方だよ、ちょ・・台本から目を背けるのやめろ! ぷいってすんな、ぷいって!」
広げた台本を目の前に、薬売りと二人して唸る。――困った、実に困った。
「・・・・“へん、く”とは読めませんかね」
「意味が全然わかんないよそれじゃあ。それならまだ“ひろくの方が「それは“あまねく”と読むんだ、“
必死になって読みを模索している自分の頭を、「この阿呆」という言葉と共にべしりと遠慮の欠片もなく叩いたのは金色のあいつだった。無駄なまでにキラキラしたオーラを放ちながら、奴は隣の席にどさりと座り込む。
「阿呆って言うな! ・・あれ、今日出番あったっけ?」
「次ので少し、な」
「今回、台詞はあるんですかい?」
「聞いて驚け薬売り! 今回はなんと3つもあるんだ!」
―――・・グッと親指立てて笑うあいつに、犬の耳と尻尾が見えるのは(以下省略)
「随分と、小難しい顔をして。皺が増えますよ」
「余計なお世話だ」
「これは、手厳しい」
くす、と唇の端を持ち上げた薬売りが、燃え立つような紅に染められていく。知る必要はない、と頭に声の記憶が木霊する。機会があったら教えてやろう。知らないものをそのままにしておくつもりはないと。
―――はい、カットー! おつかれっしたー!
カチンと鳴り響くクランクの音。その音を耳に留めて、と薬売りは纏う空気をすぅと緩める。彼の口元に浮かんだ笑みはカメラが回っていようといまいと艶やかだ。このギャップのなさが人気に繋がるのかもしれない、と目の前の薬売りを見ながら思う。
「お疲れ様でした、」
「お互い様でしょー・・・ってでも、今回薬売り台詞少なかったか」
「その代わり、画には映っていますから・・・誰かさんと、違って」
――その誰かさんは、マイクを片手にプルプル震えていた。
「あーうん、その、なんだ! 今回は3つも台詞があったんだし、お」
お疲れ様、と言おうとして、言葉は薬売りに阻まれる。
「おや今回は、声だけの出演・・・ですかい?」
「・・・・五月蝿い」
「先の朝寝のシーンで時間を取っちまって、すみません」
・・・人って、こんなに気持ちのこもっていない謝罪を言えるものなんですね。
「次はそうはいかないからな、見てろよ薬売り!」
戦隊ものにおける雑魚キャラの台詞みたくなってるよオイ、とは口に出して突っ込まなかった。それはあまりに似合いすぎていて、あまりに可哀想過ぎる。
「次とは一体、いつになることやら・・・・ねぇ?」
受け取った薬包紙を口に添え、息を止めて一気に流し込む。気管に張り付いてむせそうになるのをグッとこらえ、口を手で覆う。差し出された水の入った湯飲みを、薬売りの手から掻っ攫ってごくごく飲み干した。粉が口に入った状態で咳などしたら、体を支えてくれている薬売りが粉まみれになるのは目に見えている。――それはそれでかなり面白そうだが、後が怖いのでやめておく。
「げほ・・ッ、あーっ苦い! うぅ、口の中が気持ち悪いよう」
「仕方ありませんねぇ・・・口直し、ですよ」
「!」
口を開けて、と告げられた言葉のまま、ぱかりと開けた口に何かが放り込まれ「グ・・ッ! げほッ、ごほごほ・・ッがは!」
―――を除く、全ての人間にひと時の沈黙が降り注ぐ。ようやく静かになったと思ったとき、はその目にうっすらと涙を湛え、そうして静かに・・呟いた。
「・・・・・・・・・飲んじゃった」
撮影が終わり、後にはこう語る。
「あのときの心底あきれ返った薬売りの目は忘れられません。部屋の隅に積もり積もった綿ぼこりになった気分でした」
「血を吐いたときには俺に言うようにと、散々言って聞かせたはずですが」
表情はそれこそ眉間に刻まれた皺の一本ほどしか普段と違わないのに、そこから醸し出される怒気は空恐ろしいほどだ。鬼だ、目の前に鬼がいる。もしも自分に、感情を表す犬の耳と尻尾があったなら。きっと耳はぺったり頭に貼り付いていて、尚且つ尻尾は腹に巻き込んでいるに違いない。ここまできたら「くぅん」と鳴いてみせようか。
「――・・是非やってみてもらいましょうか、ね」
「・・・・え?」
恐る恐る、襟首を捕まえるその腕を辿って見上げれば、にやりと口元を吊り上げる薬売りの姿。自分の周囲を取り囲む空気だけ、2,3度その温度を下げたような気がする。
「あ、あの・・薬売り、さま・・・?」
「これを、」
手渡されたのは、俗にいう“犬耳”と“尻尾”の玩具(?)セットだった。
「・・・・・・」
「ファンサービス、ってやつ ですよ」
「――・・パ「ファンサービス、ですんで」
まァ、無いと言えば嘘になるような、あると言えば嘘になるような・・・と、まるで歌でも詠むように薬売りが言葉を紡ぐ。ぼんやりと中空を見つめるその横顔は、相も変わらず表情を読ませない。このまるで浮世絵に描かれるような男に囁かれた言の葉と、誰もが羨むような艶美を持った男が囁いた言の葉とでは、どちらのほうが多いのだろう。
「で? 実際のところ、どーなんよ」
「・・・さぁ、どうでしょうか ね」
やたらと苦いだけで味に深みの欠ける紙コップに注がれたコーヒーを啜り、は差し入れのクッキーをつまみながら暇つぶしの矛先を薬売りへ向ける。最初のころは上手くやっていけるのかほとほと心配だったが、やろうと思えば何だって出来るのである。
「ちぇーッ、つまんないの。秘密主義はんたーい!」
「そういうこそ、最近違う作品への出演が決まったそうじゃあ ありませんか」
「あーうん、そーなんよね。現役男子高校生に囲まれた、うはうはな現場ですよ」
けらけらと笑うに、薬売りはわざとらしく眉をひそめて見せた。
「おやおや・・・そいつぁ、妬けますね」
「言ってろ」
薬売りさーん、さーん、「獏 序の幕」の準備お願いしまーす! ――なんのことはない、幕はまだ開けたばかりだ。