0706  unconscious gloom




江戸でも屈指の規模を誇る大店、長崎屋の風雅な離れ。 墨や硯を置く文机の上に肘をつき、若だんなは憂鬱そうにため息を吐く。

「ちょいと若だんな、そんな重苦しいため息はやめとくれよ。こっちの気分まで塞いじまう」

するり、と屏風からその身を抜け出させた屏風のぞきは天を忌々しそうに見上げた。 若だんなの気分が天気になったように空は雨雲に覆いつくされ、静かに降りしきる雨が庭の木々を濡らしている。 しっとりと雨に濡れて艶やかな緑を晒す草木は、離れの趣き深い造りも手伝って季節の移り変わりを美しく教えてくれるが、屏風のぞきはそれに一目もくれず、むしろ舌打ちでもしそうな雰囲気だ。 湿気の多いこの季節は、元々が屏風である彼には鬱陶しく、それとおなじくらい厄介な時期でしかないのである。 風通しの良いところにおいておかなければ、着物の裾からカビていってしまう。 それは屏風のぞきにとって非常に屈辱的な事態だ。

「・・この雨は、いつになったら止むんだろうね」
「おや、若だんなは雨が嫌いだったかい?」

屏風のぞきは目を丸くし、意外そうに言う。 長崎屋の若だんなといえばその病弱さで広く名を知られており、尾ひれ背びれが付いて大袈裟になりがちの噂が、あながち間違いではないほど床に寝付いてばかり。 そんな若だんなにとって天気は、外に出る用事があるわけでもないし遊びまわるわけでもないから関係ないもので。 むしろ外に出られない、という理由が体の弱さ以外にも付け加えられるのだから、好きなほうかと思っていたのだ。

「・・雨自体は嫌いじゃないけれど・・・・来られないだろう?」
「? なにがだい?」

ぐ、と言葉に詰まった若だんなが、文机の上にうつ伏せてじとお、とした目を屏風のぞきに向けた。

「わかっていて言ってるんじゃないだろうね? ・・・だよ。雨だと来られないだろう?」

予想通りの言葉に屏風のぞきは小さく笑みを零す。 18になるこの若だんなは、普段の生活で同年代の女子と接する機会に欠けているせいもあるかもしれないが、に見事なまでの一目惚れを果たしていた。 おとといから降り続いている雨のせいではしばらく離れに顔を見せておらず、若だんなのタダでさえ細い食がより細くなってきている。 不本意も甚だしいがあのバカ娘を引き摺ってこようか・・・、と仁吉と佐助がこそこそ話していたのを屏風のぞきは吹き出すのを堪えて聞いていた。

だがしかし、ここで一番おもしろくて仕方がないのが若だんなの無自覚と、それを上回るの鈍感である。 今時、寺子屋に通う前の幼子ですら意識していそうな感情を、18,9の年頃の男女がまったく気が付いていない。 屏風のぞきはが離れに遊びに来ている間中、吹き出す笑いを堪えるので腹を痛めてばかりだ。 そのが帰ったら帰ったで、若だんなは彼女の背中を見送ってすぐにため息を漏らす。 ため息の色は猫又になりつつある小丸が間違えて食べてしまった桃色の雲のようで、しかも酷く哀愁を帯びたものなのに・・・・当の若だんな自身は感じ入るところがないらしい。

・・面白いことは面白いのだが、やきもきするのもまた事実である。 と親しげな屏風のぞきに、いつの間にやら身につけていた仁吉の物言いでチクチク嫌味を言ってくるのはいただけない。 若だんなが直接手を出してくることはないがそれだけ、丁寧な物言いでの嫌味はこたえるものがある。

「・・・雨がはやく止めばいいのに」

若だんなの口からぽろりと零れた言葉は雨の音にかき消されるほど儚い。 無意識がなせるワザなのか―――ぽつりと零した若だんなの言葉はどうしてだか酷く聞いているものを切なくさせる。 呟いている本人よりも、それを傍らで聞いている他人のほうがきゅ、と心のやわいところを縛られたような気分にさせられる。

「・・きっとが、太陽を連れてそのうちふらっと遊びに来るさ」
「そうかな?」

だといいよねェ・・、と若だんなが笑う。まったく、これで無自覚だというのだから手に負えない。 そんな切なげで寂しそうな顔をするから、が来るたびに「ヒマ人、大食らい」と言いたい放題な兄や(主に仁吉)たちが、いざが遊びに来ないと「気が利かないんだから、まったくあのバカ娘は・・」とため息をつく羽目になるのだ。 どっちに転んでも、は結局仁吉のお小言を貰うほかない。

「紫陽花が咲くのを楽しみにしてたから・・・もしかしたら、今日にでも来るかもしれないよ? 若だんな」

はまったく風のように自由な娘だから。 “雨が降っているから”なんていう理由で、今が見ごろの紫陽花を逃すことはない気がする。 雨のせいで気が塞ぎ、部屋でぼんやりしているより、傘をくるくる手の中でまわしている姿のほうが想像は簡単だ。

「だといいねぇ・・・今日はおとっつぁんが買ってきた水羊羹があるし」

「わーかだーんなー! あーそーぼーっ!」

雨音に紛れて聞こえたその声に、ぱぁあっと表情を明るくした若だんな。 屏風のぞきはその変化の早さに小さく笑い、そうして若だんなには聞こえないように呟く。

「・・ああ、ほら。あの子が太陽を連れてきた」

雨雲の隙間から伸びてきた光の矢が眩しい、水無月のある日。


6月分拍手お礼品。一部改訂のち再掲載。
writing date  07.05.26    re:up date  07.07.14