Baccano!

1931: Cry for the moon (1)



「悲しい・・・悲しい話をしよう」

NYの片隅、極端に人通りの少ないうらぶれた廃工場。恐慌の煽りを受けて閉鎖してしまった工場や倉庫が立ち並ぶこの界隈は、表通りの華やかさから忘れ去られ、陰鬱な空気に包まれている。近くを流れるハドソン川からじとりと湿り気を帯びた空気が流れ込み、決していいものとはいえない奇妙な生臭さがたちこめる中、トタン屋根の隙間から差し込む日差しをまるでスポットライトのように浴びる男がひとり。ひしゃげたドラム缶を椅子代わりに膝を抱えて座るその男は、目にも鮮やかな青色の作業着を身にまとい、白い光の中で金糸の髪をきらめかせている。ゆらりと揺れる金髪の間からのぞく瞳の色は晴れ渡った空のような青、しかし寝ぼけているかのような半開きの目が人々に与える印象はどろりと鬱屈している。薄い唇のあいだから漏れる愁いを帯びたため息に、彼の周囲に集まる舎弟たちはビクリと肩を揺らした。

「これを悲しいと言わずしてなんと言う? いま俺の目の前には女がいる、そうだ、少し手を伸ばせば触れられるし、もっとがんばればキスできるところに俺の心を鷲掴みにした女がいる! ・・・・・・いや、このこと自体は悲しいどころか嬉しい話だ、嬉しくて思わず踊りだしたくなるくらい嬉しい話だ! ということはこれは嬉しい話なのか? いや待て、確かにいま俺は壊して壊して壊しまくることができるほどに嬉しいが、それと同時に壊して壊して壊しつくすことができるほどに悲しい・・ああそうとも、いま俺は悲しい、どうしようもなく悲しすぎる!」

トンッ、と軽い音を立てて地面に立った青い作業着の男は、それまで片手にぶら下げていたモンキーレンチをくるくると弄びはじめる。子どもの腕よりも長い巨大さを誇るそれは自動車や大型機械などを解体する目的で使用されるものであると同時に、男――グラハム・スペクターにとっては別の目的のためにも用いられるものだった。レンチの表面にこびりついている赤黒い染みは見間違いようもなく浴びた血液の名残であり、鉄の塊をそれこそ棒切れのように振り回すその様子からするにグラハム本人の血液とは到底考えられない。それは確かに、彼がこれまでに相対してきた人間を 壊した ことの証明に他ならなかった。

「シャフト、どうして俺が今こんなにも悲しいのか聞け」
「・・・・・・・・・・・・どうして悲しいんすか、グラハムさ 「よくぞ聞いてくれた!」

グラハムが宙へ放り投げたレンチには素早い回転が加えられ、まるでブーメランのような軌道をたどって彼の手元へと戻ってくる。それを一瞥することもなく掴み取り、よりいっそうの回転と速度を加えて再び放り投げるという一連の動作。ひとたび間違えれば彼の頭蓋を破壊するかもしれないし、周囲に控える舎弟のひとりをばらばらにしかねないその動きの最中、グラハムの視線はただ一点のみに向けられていた。工場の入り口付近、外の明るさを背負って立つ少女。

「これまでにも俺は何度だって愛してると叫んだが、どうやら全部聞こえていなかったかもしくは忘れられてしまったらしい。・・・OK、OKOKOK、そんなことはどうでもいい、俺の声が届くまで、俺の言葉が脳ミソに刻み込まれるまで叫び続ければいいだけの話だからな、そんなことはどうでもいい、何の問題もない万事OK! ・・ただ俺が悲しくて悲しくてどうにかなっちまいそうなのは、その愛する女に 『ここを出て行け』 といわれたことだ、・・っこんな悲しい話があるか!? 答えはNO、全然NOだ! こんな悲しい話は存在しない、存在していいはずがない! ・・が、確かに今この悲しみは俺の中に存在している、ということはそんな思いを抱く俺は存在してはならないということか・・? そんな馬鹿な、なぜなら俺は誰に許されるわけでもなくここに存在しているし、誰に存在を許されていないわけでもないのだから! 強いて言えば俺は俺の存在を許す、当たり前すぎて口にするのも馬鹿らしいが変な誤解も受けたくないからラッドの兄貴の存在も許すと叫ぼう! ・・そしてそこにはお前の存在も許すぞ、!」

パシリ。凄まじい速さの回転の後、見た目にはほとんど銀色の円盤が舞っているように映るそれをグラハムはなんの躊躇いもなく片手に掴み取る。回転の反動でぐるりと大きく腕を回した彼は、奇妙に歪んだ口元をそのままにぴたりとレンチの先端をに向けた。外の明るい日差しを背中にしている彼女の表情は、光が作り出す影の中に隠れて判然としない。グラハムにはが柔和に微笑んでいるように見えたし、彼の舎弟であるシャフトにはうんざりとした顔でため息をついているように見えた――どちらがより正しいのかは、改めて言葉にするまでもないだろう。

「そりゃどーも。俺はグラハムの存在を認めないけどな」
「なんだと・・! 俺はよりによってよりによってよりによって、世界中で一番・・・・・・あ、いや、ラッドの兄貴の次・・?くらいに存在を認められたい人間に認められていないなんて、こんな悲しい話があっていいのか!? ・・やばい、やばいやばいやばい、あんまり悲しすぎて逆に楽しくなってきた! マゾか、俺はマゾだったのか!? それならそれで十分すぎるほどワクワクしてきたぞ、今なら超絶的に超最高に超バラせる気がする、やばいやばいやばい俺いま超やばい!」

躁鬱状態が激しいのではない、グラハムという人間は常に躁の状態で、まるでスイッチをつけたり消したりするように感情の方向だけがころころ入れ替わる非常に厄介な気性の持ち主だった。あるときは全力でこの世の儚さを憂い、あるときは全力でこの世の春を謳歌する。ものを破壊するという行動に対し、常人には考えられない快感を得る変わった性癖を持つ彼は、体の内側で爆発的に膨らみ始める破壊衝動を抱え、恍惚とした表情で血に汚れたレンチをなでた。

そんなグラハムを目の前に、は呆れたようにため息をつく。言葉がいまいち通じにくいのはこれまでの付き合いで理解していたが、理解していたからといって受け入れられるようなものではない、というか受け入れられるような人間になど成り下がりたくない。彼女がグラハムをトップに掲げる集団に関わるのは、彼らがアジトとしている場所がマルティージョやガンドールのシマを荒らしかねないところに位置しているためだ。このままの勢いで――おそらく難しいことはまったく何も考えていない状態で好き勝手していれば、そのうちきっと彼らの耳に入る、看過しておけない状況になる。

「あーはいはい、そりゃやばいねグラハムさん。とりあえずシカゴに帰れば?」

このあたりの縄張りを占めるマルティージョやガンドールが本格的に乗り出してきたとして、おそらくグラハムなら彼らに対抗するだろう。付き従う舎弟たちの前でグラハムはさながら暴君そのものだが、彼は決してその腕っ節の強さだけで舎弟たちを従えているのではない。なんだかんだ面倒見のいいグラハムのことだ、部下と一緒に場所を追われるようなことになれば、極小とはいえ二つのマフィアを敵に回して暴れまわるに決まっている。グラハム・スペクターという男は、二つの組織に対抗しうるだけの戦力になりえた。

「断る」
「・・・・・・・・・・・へぇ?」

――本当を言えば、が現状、このようにグラハム一派を追い出すような行動に出るのは筋が通っていない。彼女はマルティージョの人間でもなければ、ガンドールの人間でもないからだ。どれだけ二つの組織と親しくしていようと彼らに給金を貰っていないという点で彼女は組織の一員ではないし、組織のルールが適用されないぶん、ルールに保護されない。もしここでがグラハムらにぼこぼこにされようと組織は仇討ちのためには動かないし、彼女を守るためには動かない(それぞれの考えで動く個人は存在したとしても)。それゆえ、が最近じわじわと力をつけつつある彼らと単独で接触するのはひとつの賭けだった。

「俺は今、シカゴに戻るつもりは毛頭ない、これっっっっぽっちもない! なぜなら、俺たちはまだNYに来たばかりで何ひとつでかいことをやってないからだ。いや、俺が派手に物をぶっ壊してないからだ! わざわざ遠くシカゴから出てきたってのに、我が物顔で空を削るビルのひとつも壊さずにのこのこ帰るなんてできない、ああ、俺にはそんなことあんまり悲しすぎて出来るはずがない!」

ではなぜ、が自分の命をベットするような危険な賭けに臨むのか。答えは単純にして明快、明朗にして簡単。彼女は、グラハム・スペクターという存在をこの上なく面倒くさいものだと認識してこそいるが、決して嫌ってなどいなかったのである。何をきっかけにして切り替わるか分からない感情のスイッチと、圧縮すれば3秒に満たないであろう言葉の羅列には心底辟易しているが、それを言い出したら常時彼に付き従っているシャフトをはじめとした舎弟たちに申し訳がたたない。そしてなにより、マイナスからのスタートにも関わらずプラスに転じられる奇妙で不可解な魅力を備えた人間であることをは知ってしまった。――マルティージョやガンドールに対する彼女のスタンスは変わらない、彼らが好きだという気持ちも決して揺らがない。ただそれだけに、懇意にしている二つの組織とグラハムが敵対するのは避けたかった。

「そうとも、俺は決してシカゴには帰らない! ・・なぜならシカゴには、、お前がいないからだ!」

このまま捨て置けばいずれマルティージョやガンドールとグラハムはぶつかる。それを回避するため、は自身の命を担保にグラハムをここNYから追い出すべくふらりと訪れては退去を迫っているのだが、当たり前というかなんというか、そんな彼女の思いはグラハムにほんの少しだって理解されていなかった。確かに最初は、ロニーの手を煩わせないよう少し先回りして道端のゴミを排除するつもりで彼に接触したが、今は違う。・・シャフトにはそれとなく、こちらの意図を伝えていたのだが如何せん、グラハムは舎弟の言葉で自分の行動を変更するほど利口にはできていなかった。結局、彼の頭の中には 「物を壊す」 というそれだけのことしかないのである。

「シカゴは確かに悪いところじゃない、なんせラッドの兄貴と出会った町だ、悪い場所であるわけがない! ・・しかし、その兄貴も今はシカゴにはいない。そしてもいない・・こんな、こんな悲しい話があるか!? ・・・・・・・・・・だが、どんなに悲しい話もひとつ見方を変えればそれは楽しい話となる。そうだ、お前はここにいる、この人間の欲望渦巻くNYに! フフ、フハハハハッ! ここにはがいる、そして俺が壊して壊して壊して壊してどんだけ壊しまくってもまだ足りないほど壊すものがここには溢れている! ハッ、こんな楽しい話があるか、こんな面白い街があるか!? 俺はここでとにかくバラしてなんでもバラしてとりあえずバラして、――ッ!」

キィン!、金属同士が衝突する耳をつんざく音が工場に余韻を残しながら消えていく。弾き飛ばされた小ぶりのスローイングナイフ、巨大なモンキーレンチでそれを弾いたグラハムは顔の前に掲げたそれの影でニヤリと唇を歪めた。ぴりぴりとした緊張感が一気にその濃度を増し、ねっとりと二人のあいだの空間を埋める。

「・・それから、人の話は最後まで聞いてくれると嬉しい。――ってなんかこのセリフ、最近言った気がするな」


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こんなにも手綱を取れなかったのは初めてです。