Baccano!
1931: Cry for the moon (2)
先に地を蹴ったのはだった。姿勢を低くし、まるで猛禽の類が滑空するような素早さでグラハムとの距離をつめた彼女は、背中に仕込んだナイフの柄をつかんで一気に振りぬく。ふたりの周りをおどおどと囲んでいる人間の目にそれは銀色の閃光が奔ったようにしか映らなかったが、グラハムの首に突きつけられたナイフの尖端は、レンチの柄の部分でしっかり受け止められていた。周囲に響く、ギチギチと金属が擦れる嫌な音。
「・・・・人の厚意を、毎回毎回無駄にしやがって・・!」
「貰えるものは貰っておくのが俺の主義だが、俺はお前にそんなものを貰った記憶はないぞ? というか、そんなこと誰がいつどこで頼んだ? ・・答えはNOだ、NOOOOOOOO! 代わりと言っちゃなんだが、の好意を受け取る準備はいつだって万端だけどな! あ、今言った “好意” はラブのほうだぞ、ラブ」
「ンなもん、くれてやる準備はできてない!」
そう叫ぶや否や、は突きつけたナイフに乗せていた全体重を突如、左の軸足に移動させた。体の右半身をひねってナイフを引いた彼女は、「おっ?」 と言葉を漏らしながら体のバランスを崩したグラハムに対して渾身の回し蹴りを喰らわせる。インパクトの瞬間、ぐぐっと右足にかかる重さに一瞬顔をしかめ、けれど頓着することなく押し切った。噛み締めた唇から血が滲む、ずざ・・っと地面に転がった青を見下ろして、は自分の足元に赤く濁ったつばを吐き捨てた。
「・・今のは、前の分のお返しだからな」
「ククッ・・くは、はははははッ! 面白い、本当に面白いなお前って奴は! やべ、すげーワクワクしてきた、超ワクワクしてきた! これ以上俺をワクワクさせてどうする気だ?お前は俺をどーするつもりだ!? ・・・そういえば俺は昔、人間ってのは一生分の心臓の鼓動数が決まってると聞いたことがある・・つーかこの心拍数やばくね?超ドクドクいってね?一生分の鼓動数いまここで使い果たすつもりじゃね? ちょ、やべーよこれマジやべーよ・・もしかしては、そうやって俺の心臓をぶっ壊すつもりか? ・・そうなのか、そうなんだな!? 俺は壊すことには大変キョーミがあるっつーか超絶的に興奮するが壊されることにはキョーミがない、よって、」
「
―――俺の心臓が壊される前に、お前を壊すことにしよう」
歪んだ笑みを湛えたグラハムの腕がぐんっとしなり、まるで鞭のように振り抜かれる。その手から放たれたレンチは高速の回転を加えられて銀色の円盤となり、唸り声をあげながら一直線に空気を切り裂いていく・・そしてナイフを体の前に構えたが地面を蹴ったのは、グラハムの手からレンチが放たれたのとまったく同じ瞬間だった。眼前に迫り来る円盤を紙一重でかわしたはほんの少しだって勢いを殺すことなく、グラハムの立つ場所へ己の体を運ぶ。耳元で唸る銀色の風にも、チリッという何かが焼き切れたような音にも、鼻を掠めるゴムが焼けたような異臭にもわずかだって躊躇うことなく、まるで弾丸のように地を駆ける。
グラハムの両手が小ぶりのレンチやペンチを握り、迫ってくる少女の影にそれらを突きたてようと振り下ろした瞬間。倉庫内、いや周辺一帯には腹の底に響く爆発音が轟いた。先刻グラハムの手から放たれたレンチがその先にあったドラム缶を破壊したのだ、しかし反射的に頭を抱える周囲の少年たちを尻目に二人の動きは止まらない。グラハムの手に握られた工具がを襲おうとし、爆発音が轟いたその時、ダンッと強く地面を蹴りつけたの体はこれまでに得た勢いをそのまま利用する形で宙に踊った。
猫のように体をしならせ空中で体を半回転させた漆黒と、どろりと淀んだ青の視線が一瞬だけ交差し
――そして彼らはまったく同時に、口の端をクッと持ち上げた。
指のあいだにサッとスローイングナイフを掴み取り、はそれを一気に投げつける。最初の一本がグラハムに迫ろうとした瞬間、彼女の眼下から目にも鮮やかな青色が消えた。カカカ・・ッ、と投げつけたナイフが地面に突き刺さる音が耳に届くなか、は驚きを封じ込めて周囲に神経をめぐらせる。最も高い山の頂上を越え、着地のために体をもうひとひねりさせた彼女はそこで、驚愕の光景を目の当たりにする。
「出会いには別れがつきものだ・・だがしかし、人間は別れを乗り越えてこそより強く結ばれる!
――というわけだから、悪いな」
目前に揺れる金髪、寝ぼけているかのような半開きの目、病的に歪んだ口元。の腹部にぐっと鈍痛がはしるのと、まるでパチンコ玉のように体が宙に弾かれるのはほとんど同時だった。空中で蹴り飛ばされた彼女の体が砂埃を上げて地面に転がる。
「楽しい・・とても楽しい話をしよう。俺は知っての通り物を壊すのが好きだ、考えただけで興奮できるくらいたまらなく好きだ・・しかし殺しはしない。なぜか? それはこの手で物を壊すのが好きだからに他ならない、
――そう! 形のあるものをこの手につかめるものを目に見えるものをバラしてバラしてバラしてバラして、ああ、考えただけでもワクワクしてきた!」
地面に転がっていた巨大なレンチを拾い上げ、それを再び片手で弄び始めるグラハム。そのどろりと濁った青い視線の先には地面に倒れ伏して動かない少女の姿があるが、彼の口元には相変わらず歪んだ笑みが浮かんでいた。わずかに開いたくちびるの間から、底冷えするほど冷たい笑い声がクツクツと漏れる。
「・・いつまで寝転んでるつもりだ? この程度で壊れるお前じゃないだろう?」
ゆらりと立ち上がったは、口の端を汚す己の赤を手の甲で拭った。ぱっくり割れた唇の傷は 「不死の酒」 のおかげですでに修復しつつある、今ここで服をめくれば、赤黒く鬱血した痕が見られるに違いないが、それも時を置かずして元通りになるはずだ。・・まったく、この男には敵わない。不死の体に加え、時間があればフィーロやベルガと遊び、ロニーの後ろを付いて回っているというのにこのザマとは。
――ああそうだ、私が思い出したようにこの廃工場に訪れる本当はきっと、マルティージョやガンドールとグラハムが衝突するのを避けるためでもなんでもない。ただどこまでも純粋に、ひたすらに。私は今このときを、心の底から楽しんでいる
――!
胸の前にナイフを構えては腰を落とす。空に向かって放り投げていたモンキーレンチを捕まえたグラハムは鬱屈した笑みをいっそう深め、レンチを大きく振りかぶった。呼吸をすることさえ憚られる緊張感があたりを包み込む、それはつい先刻あたりを包んだものよりもずっと濃度や粘度が高い。冷たい泥に首まで埋められているような息苦しさ、けれどそのくせほんのわずかなきっかけで崩れるであろう脆いバランス。・・それは果たして十秒足らずのことだったのか五分近い時間だったのか、それともまばたきをするより短い間のことだったのか。
―――しばしの静寂の後、倉庫の外で鳥の羽ばたく音がした。
はそのとき、「床が抜けた」 と思った。グラハムの手からレンチが放たれる一瞬前に地を蹴り、駆け出してまもなく、ガクンと体が傾いだのだ。建てられた目的そのものとして利用されなくなり、それなりの月日が経過した廃工場はところどころトタンがはげかけているし、ガラス窓は綺麗に割られている。偶然にも傷んでいた床板を踏み抜いたのだと、彼女はそう判断した。津波のように押し寄せる刹那の呆然、はっとして見遣った己の足元には硬い地面が広がっている
――そういえば最近あんまり寝てなかったなぁ。風の唸りをどこか遠くに聞きながら、は胸のうちにそう呟いた。不死の酒を飲んだ 「不死者」 であろうと、体内の調節機能が狂うことで体調が悪くなることがあるらしい。けれどまさか、その寝不足がここでこんな風に作用してくるとは・・・銀色の唸りがだんだん近づいてくる、これではまるで今にも屠殺されようとしている牛や豚のようだと、彼女は口元に笑みさえ浮かべていた。情けない、あんまり情けなさ過ぎて笑えてくる。・・近づいてくる死の音を聞きながらふと、痛いのはいやだなぁとぼんやり思う。
ガクンと力の抜けた膝から、の体が崩れ落ちる。視界の端に迫り来る銀色を捕らえた彼女は目を閉じた、まぶたの裏にはまるで枝葉のように体からレンチの生えた自分の体が思い浮かぶ。「(
――・・3・・2・・1)」 ひどく冷静なカウントダウンの後、しかしいつまで経っても予想した衝撃や痛みはやってこなかった。どくん・・どくん・・、という心臓の鼓動だけが全聴覚を占めていた刹那の時を越えて、極限の緊張から開放されたの神経が通常の感度まで引き下ろされる。
―――ぴちゃん、と水の跳ねるような音が聞こえる。鼻を掠めるなまぐさいほどの鉄臭さ。ゆるゆると開けた目に映るのは、広がる空のように鮮烈な青。
「
―――・・ッ、グラハム!」
「嬉しい・・・嬉しい話をしよう。思わず笑い出してしまうほど嬉しい話だ・・・・・・・・、怪我はないか?」
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