Colorful

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時間は夜の8時を少し回っていた。机周りのこまごまとした雑貨を片付けていたティエリアはふと時計に目をやり、思わぬ時間が経っていたことにようやく気付く。家具を運び込む手伝いに来ていた刹那・F・セイエイが帰宅して、もう2時間が経過していたらしい。無意識に動かした視線のカーテンはきちんと閉められていたが、わずかな隙間から闇があふれ出している。

という人間はどうやら、ティエリア自身と同じように沈黙を苦にしない人種であるらしい。時間の経過を忘れるような空間に、テレビやラジオから聞こえてくる音はない。部屋に流れ込んでくるのは車やバイクの過ぎ去る音がほとんどで、そこには会話すら存在しない。ティエリアの背後には彼女がいたが、互いに壁を向いて片付けに勤しんでいるために、それを確認する方法はなかった。確認する意味も理由もティエリアは持ち合わせていない。静かなのはいいことだ、この上もなく。彼にとって、静寂を乱すものはただそれだけで敵である。

――・・貴様、片付けをしていたんじゃないのか」
「・・・・・・へ?」

けれど、てっきり本の整理をしていると思っていた人間が、どっぷり本を読み込んでいたら自ら沈黙を破ることも仕方ない。振り返ったティエリアの前で、は床にぺったり座り込んで本を広げていた。呼びかけに顔すら上げない。文字を追う彼女の夜のような瞳はただひたすらに上下運動を繰り返し、それはほとんど乱れなかった。声をかけたぐらいでは、文字を辿る彼女の集中に介入することはできないらしい。わずかな苛立ちが波紋を生む。ティエリアの平穏は、いつだってひどく脆い。

「何をしている」
「本を読んでる」

ひく、とこめかみが引きつったのをティエリアは自覚した。

「・・・・うわっ、何すんだよ!」

フローリングの床に胡坐をかいている彼女がいくら手を伸ばしたところで、立っている自分の手に届くはずがない。奪い上げた本を捲るティエリアは、鋭い視線が注がれていることに気付いている。睨みあげる漆黒は一瞬苛立ちをあらわにしたが、けれどすぐにそれを不満へと置換した。の “これ” を、ティエリアは面白いと思うと同時に、つまらないとも思う。彼女は反射的に生まれた感情を、それとよく似た違う感情へ置き換える。ごくわずかな時間、自然を装って――それこそ反射的に。最後の最後で彼女は本心を気取らせない。明らかな不満を表情にのせる彼女は、恨めしそうにじとりと自分を見上げている。

「『海辺のカフカ』、か・・」
「村上春樹、前に読んでみようと思って挫けちゃってさ。もし読まないんだったら、貸してくんない?」

――コイツ、本なんて読むのか。

「・・ちょっとティエリア、何その顔。本読みますよ、これで結構読書家でしてよワタクシ!」

恩田陸とかー、東野圭吾とかー、江國香織とかー、司馬遼太郎とかー・・・。
彼女の口からツラツラと並べられる著者名を聞きながら、そういえば本屋でバイトをしているとかしていないとかいう話を聞いたことを思い出す。人間というのは、誰しも一つか二つは予想外の一面を持っているものだ。ティエリアはまるで遠慮のカケラも見せず、本棚に並んでいる背表紙を指で追うを見下ろす。彼女の場合、意外性ばかりが先行しているような気がしなくもないが、世界には65億を優に超える人間が溢れているのだ。こういう人間がいるのも、当然といえば当然のように思えた。

「もっと他にないのー?」

このまま放っておけば、掃除をしたばかりの部屋をひっくり返し始めそうな気配にぎょっとして、ティエリアは取り上げた本を手渡してやる。嬉々としてそれを受け取った彼女は、すぐさまページを捲った。へらへらして掴みどころのない雰囲気が霧散して、かわりに彼女の周囲は透明な薄皮一枚で遮断される。目に見える形での彼女の集中。それはほとんど、他人の介入を柔らかく拒否する防御の姿勢。

――・・いい気なものだ。
ティエリアはゆるく溜息をついてベッドの端に腰掛ける。ぎし、とスプリングが軋む音すら耳につくような静寂は今、完全にティエリアのテリトリーだ。彼は “自分の空間” に他人が入り込むことを極端に嫌う。自宅の居間や客間に友人を招くのに抵抗がないとしても、自身の寝室をのぞかれるのはあまりいい気がしない。例えばそういうレベルで、寝室などというごくプライベートな部分だけではなく、玄関をくぐらせることも住所を晒すことも、ティエリアには嫌悪の対象になる。

勿論、自分以外全ての人間がその嫌悪の対象として引っ掛かるかといえば、そこまでティエリアは頑なではない。刹那・F・セイエイをはじめとして、引越しの手伝いに来たあの3人は対象から外される。けれど片手では足りないかもしれないが、両手では確実にあまるその “例外” に、がひょっこりと顔を覗かせている現状を、当のティエリアが一番信じられない。ただ隣に住んでいるだけの人間。初対面時、強烈なまでの悪印象はまだ薄れていない。

「ティエリア、」
――何だ」
「・・どうしよう。お腹空いた」

だからどうした、という言葉の代わりに、大きな溜息を一つ。

「なぁティエリア、いま何時?」
「8時17分」
「うあ、もうそんな時間? そりゃお腹も空くはずだわ」
「・・・確かにな」
「あー・・・・・ティエリアって、お腹 空くんだ」
――レアとミディアムとウェルダン、好みはあるか」
「そーだな、ステーキだったらレア寄りのミディアムってところかなぁ・・・ってあの、質問の意図が読めないんですが」
「別に大したことではない。死に方の所望を聞いただけだ」
「すみませんホントごめんなさい冗談が過ぎました」

パタン、と本を閉じて立ち上がった彼女は、ティエリアの前に立って彼に手を差し出した。訝る深紅の前ではふわふわ笑う。今自分に向けられているこの表情が、何か他の感情と置き換えられたものだとしたら――面白くもない思いつきに唾棄し、ティエリアは彼女を見上げる。本音は読めない。

「お詫びといっちゃなんですが、昨日のシチュー残ってるんで一緒にいかがですか」


溶解する温度


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170:溶解する温度 ...鴉の鉤爪 / ざっくばらんで雑多なお題(日本語編)
writing date  08.05.03    up date  08.05.10
彼女の読書の趣向はモロ管理人の趣向ですエヘへ。統一感皆無でゴメンなさい。