Colorful
:14
いい天気だ。ティエリアはそれまで読んでいた文庫本からわずかに目を上げて、単純にそう思う。春から夏へと移り変わろうとしている季節は、春ほど肌寒くはなく夏ほど暑苦しくはない。日射しは日を追うごとに強さを増しているが、頬を撫でる風はひんやりと乾いていた。ちょうどいい木陰が広がっている大学構内のカフェテラスは、次の講義までの空き時間を潰すには有用だ。大学内にある喫茶室としては珍しく、自家焙煎された豆から丁寧に抽出されたコーヒーは下手なチェーン店のものよりも薫り高く、深い味がする(もっとも、コーヒー好きな店主の趣味によるところが大きいらしい)。配属されている研究室から近いこと、美味いコーヒーが飲めることにより、このカフェテリアはティエリアの数少ないお気に入りの一つだ。ただ惜しむらくは周囲が多少騒がしいことか。ため息を漏らして、ティエリアは再び本に目を戻す。
「おっ、ティエリア! ここいいか?」
聞きなれた声に目を上げた先で、ロックオン・ストラトスがトレーを掲げていた。すぅ、と目を細めたティエリアが返事をするより前に彼はトレーを机におき、向かいの椅子に腰掛ける。不愉快そうに眉をひそめるティエリアに、「まァまァ、別にいーだろ?」 とロックオンは笑った。彼のあつかましさは出会った頃から変わらない。決して歓迎したいものではないが、不快でないのも事実だった。ティエリアは小さく吐息をつく。
「・・論文の目処は、ついたのですか」
「ああ、なんとかぎりぎりでな。悪かったなティエリア、手伝わせちまって」
ロックオンは、ティエリアが配属された研究室の院生にあたる。学部生である自分が、ロックオンの手伝いをするのはある意味で当然のことと言えたし、この経験が将来的に自分のためになることをティエリアは理解していた。いつも陽気で、飄々とした振る舞いを崩さない彼はそのくせ、研究者としても優秀だ。自己の不利益になることはありえない。
「別に。当然のことをしたまでです」
冷めてしまったコーヒーを口に含み、文章の続きを追う。 『ネバーランド』
―― あれにオススメだと押し付けられた本だ。
「・・ティエリア、お前
――」
心底驚いたような、呆気に取られたようなロックオンの声。聞きなれない声音にティエリアは思わず目線を上げた。そこにあるのは、彼の声音がティエリアに伝えたのと同じ驚きの表情。ここの売りの一つであるホットサンドを口に運ぶ途中で、ロックオンはぽかんと時を止めてしまったらしい。珍しいものを見た、と純粋に思うと同時に、理由の知れないその表情を訝ってティエリアは眉をひそめる。
「・・・言いたい事があるなら、はっきり言ってください」
「あー、いや・・別にたいしたことじゃあ、」
「・・ロックオン・ストラトス」
あー・・、と言いにくそうにロックオンが視線を逸らす。彼をじろりと睨みつけ、深紅は鋭さを増した。無言の攻防を十数秒続けながら、ティエリアは逃がさないと眼差しを強くする。こうなった場合、勝敗の利があるのは自分であるとティエリアは知っていた。視線の先で、居心地が悪そうにゆるゆると波打つ栗色の髪をかきまぜ、すらりとした長身を揺らす。しばらくして彼はようやく、大袈裟なため息をつきながら わかったよ と両手を挙げた。
――― 「表情が、柔らかくなったと思ってな」
「・・・は?」
「言葉通りだよ。ティエリアお前、顔がやさしくなった」
「
――・・な、何を突然 わけの分からないことを・・!」
ひどく狼狽する深紅に、ロックオンは柔らかく苦笑する。
「まったく思い当たりがないわけでもないだろーに・・・ま、焦りは禁物 だしな」
お前らのペースで、ゆっくりやればいいさ。
そう言って笑う目の前のこのひとは、一体何を言っているのだろう。周囲のざわめきが音もなく遠ざかっていって、周りの人間が背景に溶け込んでいく。意味が分からない。通り過ぎていった風が、手の中にあった本のページを捲っていく。しまった、と思ったときには遅かった。しおりを挟みこむ間もなく、目次まで戻されてしまう。手綱の外れた記憶が時空を遡る。自分の意思とは無関係に。
ティエリアが知らず、息を飲み込んだとき。その喚声は辺りに響いた。
「・・・一体、なんの騒ぎですか」
「ティエリア、お前知らないのか? ウチと共同研究してる企業からの出向ならしいが、なんでもそいつが若くて男前だってもっぱらの噂でな」
騒ぎの中心人物を人々の間に見つけ出して、ティエリアは思わず声を失った。
「えーと、名前は・・・ああ、思い出した。確か、 グラハム・エーカー つったかな」
ありえない、と思った。こんなことが普通起きるはずないし、起きていいわけがない。ティエリアは秀麗な顔をゆがめながら奥歯を噛み締める。一般企業から大学への出向など、皆無なわけではないがそう多いわけでもない。しかも山ほどある大学の、星の数ほどある研究室のなかから選ばれたのが自身の配属している研究室で、そして極めつけが、
「今日からこの研究室に出向することになった、グラハム・エーカーだ。よろしく頼む」
「(・・どうして、あいつなんだ・・・!)」
こんな偶然がありえてなるものか。どれだけ天文学的な確率の元に成り立った偶然なのだろう、もう考えたくもない。ロックオンにその事実を口頭で伝えられたときには、それでもまだ半信半疑だった。他人の空似という言葉もあるし、同姓同名も探せばいる。そんな一縷の望みに全てをかけたのだが、我ながら現実逃避も甚だしいと今なら思う。研究室に駆け込んでアレルヤにその事実の如何を聞いているとき、教授とともに入ってきたそいつの姿を見て、ティエリアは己の手の中で蜘蛛の糸がぷっつり切れる音を聞いた。
「・・おや、確か君は・・・」
自身のところで留まった若草色を抉り出してやろうかと、ティエリアは8割方本気で思った。
「ティエリアをご存知ですか、エーカー君」
「あぁ、いや なんというか、彼は 「知りません」
教授と研究室にいるすべての学生たちの視線が集まっていることを自覚しながら、それでもティエリアは眉毛一つ動かさず、一切の温度を感じさせない声音で再び言葉を重ねた。知りません。
――知っていてたまるか、というのが本音。奴は今、ティエリアのなかで存在を抹消したいリストのトップに名を連ねている。巻き戻りそうになる記憶の手綱を、きつく握りなおして睨みつける。
「・・・いえ、すみません教授。どうやら私の勘違いだったようです」
「そう、かね?」
「ええ。他人の空似、というやつでしょう」
「は元気か?」
とてもじゃないがやってられない。早々に実験を切り上げて、はやめの帰路に着く途中だった。とろりとした甘さの奥にナイフの鋭さを隠した声がティエリアの背中を追いかける。振り返って睨みつけた若草色は、端整な面立ちに苦笑を滲ませた。わざとらしく肩を竦める姿にすら、ティエリアの苛立ちはつのる。
「そう怖い顔をしないでくれたまえ。些細な質問じゃないか」
「・・答える義理はない」
「君なら、そう言うとは思っていたがね」
「・・・用件はなんですか」
フッと口元を緩めた彼は、しかしひどく真剣だった。その若草色は確かに、真摯で誠実な光を湛えていた
――ティエリアが、思わず目を逸らしたくなるほどに。
「私が彼女に告げた言葉に嘘はない。すべて真実だ
――・・君は、どうなんだい?」
血の狼煙
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133:血の狼煙 ...鴉の鉤爪 / ざっくばらんで雑多なお題(日本語編)
writing date 08.05.06 up date 08.05.24
ロックオンの兄貴があんまりにも兄貴すぎる件について。趣味ですごめんなさい。