Colorful
:22
どうやら、今夜は満月ならしい。なんとなく聞き流していたテレビからの情報に、ティエリアは集中を分散させた。次から次へと課されるレポートにはきりがない。パソコンから目を上げたティエリアは、椅子の背もたれに体重を預けて天井を仰いだ。大陸からやってきた大型の高気圧のおかげで、このあたりは雲ひとつない夜空に満月を拝むことが出来るという。眉間を指で揉み解して蓄積した疲労をごまかしながら、作業中には外しておいたメガネを手に取った。レポートを進める間のわずかな休憩時間、満月を眺めるのも悪くない。
夜11時をそろそろまわろうかという時間、外は静寂に満ちている。住宅街の一角に位置するおかげで、この辺りの夜はひどく静かだ。頬をなでていくひんやりと冷たい夜気と、深い森の中にある湖面のような静謐。夜空にぽっかりと浮かんだ月は、周囲の星々から光を奪って夜の闇を照らしていた。ベランダの手すりに寄りかかって、ティエリアはそれを見上げる。太陽の日射しは眩しすぎるけれど、この清廉な月光は嫌いではない。
そうしてしばらくしたとき、突然机の上においてきた携帯が唸り声を上げた。ティエリアの携帯はいつだって呼び出し音を発しない。あのけたたましい電子音はこちらの不快感を増長させる。それに何より、“携帯” はただそれだけで行動をひどく制限する。携帯というツールの利便性を十分に理解し、かつその恩恵に浴していても尚、ティエリアはそれに対して好ましい印象をあまり抱いていない
―― そう、それはきっと、今のようなことが多々あるからだ。
深々とため息を漏らして、カーテンの間に体を滑り込ませる。部屋に満ちている蛍光灯の光に一瞬、くらりと眩暈がした。いまだに机の上で振動を続けているそれは、メールではなく着信の光を点滅させている。こんな時間になんの断りもなく電話を入れるとは
――、相手如何ではそのまま無視することに決めたティエリアは、けれど画面に映し出されていた名前にわずかに目を丸くした。
[着信: ]
「・・・何の用だ」
『もしもしティエリアー? ベランダ出て、ベランダ!』
――例えばそう、こんな風に。突然何の前触れもなく、携帯はティエリアの行動を制限する。不愉快そうに眉をひそめ、ティエリアはため息を隠そうとしない。 『ため息ついてないで早くしろって!』 ・・どこまでも図々しい声にティエリアの苛立ちはつのる。耳に届くその声は、感情の一切を理解しない電波を介してなお、溢れるような感情に満ちていた。
夜風に舞うカーテンの隙間に身を滑り込ませると、全身が夜に染まる。闇ではない、ここは月の光を一身に集めている。南天の空に向かってゆっくりと昇り続けている満月は、ほんの数分前よりもその明るさを増した気がした。清浄な銀の光に照らされて、家々の屋根が 『下見て、下!』 白く浮かび上がっている。
聞こえてくる声はどこか、はしゃいでいるようにも思えた。ほとんど反射的に、ティエリアはベランダの手すりに身を寄せて階下を見遣る。明るく照らされている電灯の下で、がひょこひょこと飛び跳ねるようにして手を振っていた。
『ティエリア、見えたー?』
「見えない」
『嘘付け、今目ぇ合っただろ!』
電灯のあかりの下にいるとしても、満月の光を浴びているとしても、自分たちを包む空気には夜の色が濃い。とっぷりとした暗さの中で、存在が不安定に浮かんでいる。その表情を見ることは勿論できないが、けれどティエリアにはあれが今どんな表情でいるのか容易に想像ついてしまった。へにゃりと目元を緩め、不謹慎にへらへら笑っているのだろう
――・・ティエリアはまたもう一つ、ため息を吐き出す。
「・・今が帰りか」
『うん、大学祭の準備だったんさー。ついでに寄り道して帰ってきたし』
は電柱に寄りかかり、どこでもない中空に視線を向けた。ティエリアは月の光に照らされる家々を眺める。
「時間ぐらい考慮に入れて行動しろ」
『あー・・うん、自覚ある。でもこう・・ついフラフラっと』
「・・・・・・」
『ちょ、ため息つくのやめなさい!』
今日のこの空模様から察するに、明日もきっと快晴なのだろう。季節はあっという間に移り変わろうとしていて、大学内でもちらほら半そでの人間を見かけるようになった。ティエリアは夏が嫌いだ。燦々と照りつける日光と、うだるような暑さ
――考えただけで気が萎える。夏バテにならない夏などなかったし、去年などは減退した食欲のままに気が向いたものしか食べなかったら見事に体調を崩し、それ以降アレルヤとロックオンの監視を受ける羽目になってしまった。わずらわしかったことこの上ない。
「今日は出たのか」
『 “出たのか” って・・そんな、害虫じゃないんだからさ』
グラハム・エーカーがしばしば、あれのバイト先に顔を見せていることを知ったのは数日前だ。奴に頼まれた本を仕入れるついでに、いくつか情報工学や機械工学の書籍を注文するから、もし希望があるならティエリアのそれもリストに加えるという。のその申し出はティエリアにとって願ってもないものだったけれど、それの他にも意識を分散させることを余儀なくされてしまった。ティエリアには、グラハムを “害虫” 呼ばわりすることにほんの少しの抵抗もない。
『そんな悪い人じゃないと思うけどなー、あの人』
初対面の人間には決して悟らせない慎重さで、彼女は他人を柔らかく拒絶する。それは例えば、へらへらした笑みだったり、のらりくらりとして掴みどころのない態度だったり、たくさんの感情を映し出すくせに本音を読ませない漆黒だったり。あれはいつだって、絶妙なバランス感覚で周囲の人間との距離を測っている。
――そしてふとした拍子に、あれの無関心は顔を覗かせる。ティエリアの無関心が自分以外のものに向けられるとしたら、の無関心は自分自身に。自己に対して客観的、というほど完成したものではないそれは、不意にティエリアの前に露見する。
「・・そのお気楽な思考回路は理解しかねる」
『お気楽って・・そんなつもりはさらさらないんですけど』
「だとしたら、重症だな」
『・・・・・・』
電話口の向こうで、あれがどんな顔をしているのかなんてのは、想像に難くない。
『てかティエリア、ベランダで何してたんだよ?』
「・・月を、」
『んー?』
――・・月を見ていた。
沈黙はが月を見上げ、そして静かに息を呑み込む音をティエリアに伝えた。冷えた夜風が通り過ぎざまに、あれの漆黒の髪を撫でていく。夜の中にあっても、それより深い闇色のそれ。月が届ける光をうけて、淡い銀色に縁取られている。
『もしかして、今日って満月?』
「らしいな」
『ヘェ、なるほど・・すごいキレー・・・』
おそらく今あれは、ぽかんと口を開けているのだろう。ティエリアはわずかに唇の端を持ち上げる。
『? ティエリア、今なんか笑った?』
「・・なんでもない。それより、いつまでそうしているつもりだ?」
『うお、やば。あー・・と、いきなり電話してごめん。携帯取りに戻らせたし』
「まったくだな。・・次からは気をつけろ」
『ん、そーする。
――・・じゃあ、おやすみ ティエリア』
「おやすみ」
夜半の調べ
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017:夜半の調べ ... 鴉の鉤爪 / ざっくばらんで雑多なお題(日本語編)
writing date 08.05.22 up date 08.06.17
こいつらはなんだか、太陽よりも月の下のほうが似合う気がする。