Colorful

:23



は夜道が好きだ。体に宿る心地よい疲労感と今日も一日が終わったんだという達成感を噛み締めながら、殊更ゆっくり歩く帰り道は特に。ひんやりとして、湿り気を帯びた夜気。ぐぐっ、と両手を突き上げながら見上げる夜空。まるで海の底のようだと思う。肺の奥深く、頭のてっぺんから爪先までを染め抜く深い夜のなかで、私はくらげになる。ふよふよと波に揺られて運ばれていくくらげになる。半透明の体を闇の色で染めながら、次の朝を迎えるための準備をする。

「ふあ・・・ねっむ」

“きみはいつも、ヒマそうで羨ましいな” という皮肉は的外れだ。今週中にはレポートを提出しなければならないし、来週末にはテストもある(過去問は入手済みだ、抜かりはない)。週3日でバイトにもちゃんと行っているし、NHKの大河ドラマだって毎週きちんとチェック済み。こう見えても忙しいんですー、と答えたときの呆れかえった深紅に目潰しをかまそうとして、関節が曲がるほうとは逆にひねられて泣きそうになった。ひょろひょろした体格のせいで一見そうは見えないが、ヤツの運動神経や反射神経は常人の一歩上をいく。

「・・・ティエリア?」

見慣れたアパートの三階、通りに面しているベランダに人影を見つけた。月の白い光を受けながら立つその人は、さながら深窓の姫を絵に書いたような横顔で外をぼんやり眺めている。優しい夜風が紫苑をなびかせ、月がそれに彩りを加える。風に舞うそれを頓着せず、むしろどこか邪魔そうに耳にかける仕草はきっと、というかおそらく絶対、無意識の産物に違いない。

もしも今、月から従者が牛車を引き連れてやってきて、ティエリアをのせて月に帰っていったとしても、はさほど驚かないだろう。「ああなるほど、ティエリアって竹から生まれたんだー」 とかえって納得するかもしれない。――本人様にこんなことを考えていたのがばれればきっと私に明日の命はないから、なんとしてでも隠し通さなければ。たとえ火鼠の衣や蓬莱の玉の枝、燕の子安貝と交換だと言われても、私は自身の命がかわいい。・・・五種の秘宝を目の前に積まれても、自己の自由に対する損害を断固として拒否するティエリアが思い浮かんで、は思わず笑ってしまった。

ベランダの手すりに寄りかかり、なおも夜の住宅街を眺めているそのひとはこちらに気付く様子もない。彼の意思を紡ぎだす鮮やかな深紅が月に見入っているのか、それとも茫洋とした夜空に浮かぶ白い月に魅入られているのか。「―――・・、」 思わず名前を呼ぼうとして、けれど一度開きかけた口はふっつりと閉じられた。きゅ、とわずかに唇を噛む。名前を呼ぶことが憚られたのはきっと、時間が遅いせいだ。

「・・・電話、してみよーかな」

無機質な呼び出し音が繰り返される。もう確かに繋がっているはずなのに、ヤツに変化はない。鼓動がじわりとリズムを上げる。もしかして間違えたのかとディスプレイを確認しようとしたとき、ベランダの人影が動いた。するりとカーテンの隙間に消えた影にホッと息を吐き出す。

『・・・・何の用だ』

俺はいま機嫌が悪い、とその声は如実に伝えていた。

「もしもしティエリアー? ベランダ出て、ベランダ!」

はぁ、と隠されることのないため息は電話越しのはずなのに、けれど目の前で漏らされたもののように感じた。考えてみれば、ヤツと一緒にいてため息をつかれなかったことなどないのだから、当然といえば当然なのだけれど、慣れっこになってしまった自分が哀しい。

「ため息ついてないで早くしろって!」

再びベランダに姿を現したティエリアは、周囲に不機嫌をばら撒いていた。隣にいるわけでもないし、表情が見えるわけでもない。ヤツが纏っている空気に実際触れられるわけでもないのに、けれどひどくわかりやすかった。知らないうちに、自分は随分とティエリアに懐いたらしい。はくつりと口唇の端を持ち上げる。 「下見て、下!」 カチリ、と目が合う音がした。情け容赦ない深紅のそれには、見るものを引き付ける強引な力がある。はそれが嫌いではない。

「ティエリア、見えたー?」
『見えない』
「嘘付け、今目ぇ合っただろ!」

――別に期待もしていなかったけれど、ティエリアが手を振りかえしてくれるはずなどないのだ。電話越しに聞こえてくるため息が、ただそれだけでヤツの表情を伝える。

『・・今が帰りか』
「うん、大学祭の準備だったんさー。ついでに寄り道して帰ってきたし」

あんなことをされて、よくまたあのコンビニに行けるな きみは。
いつだったか、信じられない貴様はバカか、というニュアンスを大いに含めて言われたことがある。正直な話、“あんなこと” が “どんなこと” だったのかピンと来なくて首をひねったら、例えば駐輪場なんかに並べられている自転車をドミノ倒ししてしまった人に向けるような、気の毒そうな視線に晒された。意味が分からない。「嫌悪」 が度を越えると 「軽蔑」 になり、それすらも超越すると 「憐憫」 へと姿を変えることを、はあのとき初めて知った。

ティエリアのいう “あんなこと” が “あのこと” で、あれ以来ヤツがひとつ遠くのコンビニを利用していることを知った頃、は店員の兄ちゃんに 「最近どーなってんスかぁ?」 と冗談交じりに尋ねられるほど仲良くなっていた。

「時間ぐらい考慮に入れて行動しろ」
『あー・・うん、自覚ある。でもこう・・ついフラフラっと』
「・・・・・・」
『ちょ、ため息つくのやめなさい!』

きっと明日もいい天気なのだろう。雲ひとつない夜空を見上げては口元をほころばせる。

「今日は出たのか」

――ひどい言い草だな、とは冷静に思う。ティエリアの口から突然飛び出す、三人称のくせに主語のない言葉は多くの場合、グラハムを指していることに気付いたのは最近だ。話が進行する中で、「え、それ誰のこと?」 と蒸し返される無駄を嫌うティエリアは大抵、きちんと述語に対応した主語を差し込む。けれど不意に、その当たり前が崩れる。恐る恐る主語を聞き返し、それだけで人ひとりくらい殺せそうな眼光を頂戴しながら賜る名前は、大抵の場合あの人だ。

「そんな悪い人じゃないと思うけどなー、あの人」
『・・そのお気楽な思考回路は理解しかねる』
「お気楽って・・そんなつもりはさらさらないんですけど」
『だとしたら、重症だな』

今すぐ階段を駆け上っていって、一発ぶん殴ってやりたい。はひくりとこめかみを引きつらせる。

「てかティエリア、ベランダで何してたんだよ?」
『・・月を、』
「んー?」

――・・月を見ていた。
触発されるように見上げた夜空に、月を見つけた。道理で普段より夜道が明るく、その割に星が見えないわけだ。家々の屋根からのぞく月は透き通るような白を纏って、空にぽっかりと浮かんでいる。ここは夜という海の底。あの月はさながら、水面へと昇っていく空気の泡。くらげの足は届かない。

「もしかして、今日って満月?」
『らしいな』
「ヘェ、なるほど・・すごいキレー・・・」

その時、電話越しに伝わる空気が震えた気がした。それはひどく些細で、曖昧な雰囲気の揺れ。ティエリアは滅多なことでは笑わない。冷笑や失笑、嘲笑を浮かべさせることに関しては自信があるが、それ以外の微笑だったり柔らかな苦笑だったりとなるとまったく話が別になる。見たいと思うものと、させることのできる表情はいつだって一致しない――それだからきっと、私はティエリアのほんのかすかな笑みに対して敏感になったのだと思う。

「? ティエリア、今なんか笑った?」
『・・なんでもない。それより、いつまでそうしているつもりだ?』
「うお、やば。あー・・と、いきなり電話してごめん。携帯取りに戻らせたし」
『まったくだな。・・次からは気をつけろ』
「ん、そーする。――・・じゃあ、おやすみ ティエリア」
『おやすみ』


月の船、星の林に


novel / next

026:月の船、星の林に (古今和歌集より) ... 鴉の鉤爪 / ざっくばらんで雑多なお題(日本語編)
writing date  08.05.27    up date  08.06.21
Sideヒロイン。視点が違うだけで随分違う話になるものだなぁと思う。