Colorful
:25
いい加減、我慢の限界だ。
「お腹すいたお腹すいたお腹す 「煩い、静かにしていろ!」
堪忍袋の緒が切れた。ティエリアはぎり、と奥歯を噛み締めると手近にあったステンレスのボウルを手に取り、彼のベッドの上に寝転んで漫画を広げる阿呆にそれを投げつけた。おおきく振りかぶって彼の手から放たれたボウルは放物線ではなく、見事な一直線を描いて宙を切り裂く。ゴチィイン・・という尾を引く音と いってぇえええ!と耳をつんざく悲鳴が聞こえて、ティエリアは反射的に台所と居間とを結ぶ扉を閉めた。直後、何かが投げつけられたようなガツッという音が扉越しに聞こえ、彼は眉間に皺を寄せる。
「・・物を投げるな」
「お前が言うな女男!」
「・・・・・今、なにか言ったか?」
「よしわかった ティエリア。とりあえず包丁置こう、包丁」
事の始まりは、「ティエリアってさー、料理とか苦手そうだよな」 という根拠のカケラもないくせに、ひどく自信に満ちた声音で語った阿呆の妄言だった。
「・・・・・は?」
「いやだって、台所に立つティエリアとか想像できないもん」
あっけらかんと笑い、まるで当然のように言い放つこの馬鹿の、突拍子もない言動にはいい加減慣れつつあるが、だからといって苛立ちを覚えないのとは話が別だ。むしろ、完璧なタイミングで完璧に組み立てられた言葉ではないそれらは、あれの嘘を含んでいないだけにタチが悪い。さらさらと、まるで手に掬い上げた砂が流れ落ちるように、あれは不意に言葉を零す。それが朱音の本心かそれとも別の何かなのか、ティエリアには判別できていない。
「・・ぐぇっ! ちょ、いきなり襟引っ張んなよティエリア! 首、首絞まってるから!」
「・・行くぞ」
「はぁ? 何いきなり。どこ行くんだよ」
「
――・・食料を買いにいく。ついてこい」
まさかその食料品店でロックオン・ストラトスに出会うとは思わなかったが、別にそれは瑣末なことだ。ひどく楽しそうに笑みをのぞかせるロックオンの顔は、いつだかに見た表情であるような気はしたが、ティエリアに自身の記憶を辿る義務はない。全身をのっぺりと包む、妙な気配にティエリアは気付かなかった振りをする。
ざかざかと音を立てる買い物袋と、「ほんとに出来るのかよー?」 とどこまでも失礼な阿呆を携えてアパートに戻ってきたのが夕方4時。
――現在時計は、7時過ぎを指している。
「いつまで待たせんだよ、ティエリア。見てみろ、借りてきた夏目友人帳 全部読み終わったじゃん!」
「よかったな」
「あ、うん。スゲー面白かった」
――・・我ながら、あの阿呆の扱いが上手くなったと思う。
わずかでも隙を見せれば、いつも持ち歩いているらしい菓子をカバンの中から引っ張り出して口にしようとする阿呆をそのたびに怒鳴りつけ、それがむっつりと唇をへの字に歪めてしばらく。部屋の中には香り豊かなカレーの匂いが漂っている。その匂いが濃くなるに従って、お腹すいたお腹すいたと喚き散らす阿呆の抵抗がひどくなってきた。飢えた獣のようなそれがギラリと閃く。
「・・・なぁ ティエリア、カレーはもう出来上がってて、今は煮込んでる状態なんだよな?」
普段、足を向けている側のベッドのふちに座って文庫本を広げていたティエリアは、どろりと濁った食欲という煩悩を前面に押し出す漆黒をチラリと見遣り、そして見なかったふりをした。二ィ、と吊り上げた口元に尖った犬歯が光った気がして。
「・・そうだが」
「じゃあもうよくね? もうじゅうぶん煮込んだよ、じゅうぶんおいしいよきっと。だから、「駄目だ」
「なんでぇええ?」
我が物顔でティエリアのベッドに寝転がり、恨みがましく見上げてくるそれは、声高に不平不満を叫ぶ。
「確かにね、カレーは煮込めば煮込むほどおいしいですよ? でもほら、言うじゃん “空腹は一番の調味料” って! いやぁ今なら、白米だってボリボリいける自信あるね」
――こいつはもしかしてもしかしなくても、自分のことを馬鹿にしているのだろうか。
「違う、違うよティエリア! 誤解だよ、炊く前のご飯とティエリアのカレーを並列には考えてないよ!」
「・・・・本に、3時間煮込めと書いてあった」
「気にすんな! ティエリアはティエリアのカレーを作っていこう!」
ぐるるるる・・、と獣の呻き声のような音が聞こえて、ティエリアはようやく本から目を上げる。カチリと動きを止めたそれはじわじわと顔を羞恥に染め上げ、羽毛布団に勢いよく顔をうずめた。髪を一つに結わえているせいであらわになっている耳まで朱色に染まっていく。
「・・・ひどいな。腹の鳴る音か、今のは」
「うるさい、お腹すいたって散々言ったろ!」
「まだだ」
「あーもう、ほんと融通利かないんだもんなー ティエリアは!」
ばたばたと足をばたつかせるこの阿呆は、そちらが枕元に当たることなどまるで考えていないのだろう。ティエリアは、閉じた文庫本の背表紙で朱音の後頭部を打ち下ろす。コン、と鈍い音がして、同時に彼女はくぐもった悲鳴を漏らした。うつ伏せの状態で布団に顔をうずめているおかげで、幸いにもその声は響かない。
「いってぇ・・・あ、そーだ。ティエリア、注文してた本届いたよ」
ベッドに横になったまま、ぐぐ・・と手を伸ばしてカバンを取ろうと
――していないのだろう、この馬鹿は。本当に取ろうとするなら立ち上がるべきで、そうしないのはティエリアが取ってくれるのを待っているからだ。図らずもその意図を読み取ってしまい、不愉快そうに眉をひそめる深紅の前で、朱音の唇はニタァと笑みの形をかたどる。
それだけで数人殺せそうな舌打ちをして立ち上がり、感情を逆撫でする笑みが深くなったのを認めてもう一度、ティエリアは本の背表紙でその脳天を叩きつけた。ゴン、と今度はひどくいい音がして朱音が頭を抱え込む。あまりの痛さに言葉も出ないらしい・・・静かでいい、次からは最初から容赦なく手を下すことにしようと決めて、ティエリアはカバンを朱音に突き出した。受け取ろうと伸ばしてきた手がその間際に拳を握り、勢いよく通り過ぎたのを軽く避ける。この阿呆の考えていることは時々、どこまでも分かりやすい。
「
―― どうぞ、間違いがないかご確認ください!」
怒りや羞恥をない交ぜにした漆黒は、鋭い光を帯びている。それはティエリアに、全身の毛を逆立てて唸り声を上げる猫を思わせた。今にも飛び掛らんと小さな身体に警戒心をみなぎらせ、爪の先まで威嚇をあらわにする、矜持のひどく高い猫。ティエリアは知らず、唇の端をわずかに持ち上げる。
「・・間違いない。確認した」
「そりゃあようござんした!」
男のそれのように切れ長の目を丸くして、ぽかんと対象を見上げるとき朱音は面立ちに幼さを滲ませる。瞬間消え失せる表情という名の盾、漆黒に宿る透明な光。
―――助かった、とティエリアが告げたとき、それは彼の前に露呈した。
「・・・・どうしよう、」
「何がだ」
「ティエリアに礼を言われても、どんな顔すりゃいいのかわかんない」
どういう意味だ、と応えようとして、けれどそれを遮ったのは朱音の小さな呟きだった。「あ、グラハムにも連絡しなきゃだ」
「・・・・・なんだと?」
「や、注文してた本が着いたら連絡しますって言ってあるからさ」
あ、そーだ。ティエリアからグラハムに、本届きましたよーって伝えてくんない?
渾身の力をこめて振り下ろした文庫本は、そのすっからかんならしい頭の上で がつんっ と盛大な音を立てた。今度こそ眦に涙を滲ませた朱音が、凄まじい反応速度で身体を起こし、ティエリアの襟首を引き寄せる。女の割に固く、けれど男のそれよりも軟弱な拳を易々と掴まえて、彼はリーサルウェポンを口にした。
「
―――・・ほう、君は要らないのか」
返事は彼女の口からではなく、腹の虫から発された。
幸せの在るべき形
novel / next
幸せの在るべき形 / ジャベリン
writing date 08.06.08 up date 08.07.01
・・・いちゃこきやがってよォ、と思ってるの私だけ?