Colorful
:32
空が泣いている。カランカラン、という軽やかな鈴の音を背中に聞きながら、は灰色にうずまく空を見上げた。しとしとと降り注ぐ雨が、等しく全てを包み込んでいる。濡れたアスファルトの匂い、街路樹の鮮やかな緑、半袖からにょきりと伸びた腕を撫でる湿っぽい空気。雨どいからぽつりと落ちてきた雫の冷たさに思わず体をすくませ、そしてはため息をついた。
「傘、持ってないし」
少し前、「ここのケーキは絶品なんだ」 とロックオンに紹介されてから、はこの小さなカフェにときどき顔を見せていた。あれだけのチョコレートケーキを出すのだ、他のものが美味しくないわけがない。連れは伊坂幸太郎、あるいは重松清。氷の浮いた紅茶とほっこりとした甘さのケーキをお供に繰り出す時間は、早朝、太陽が昇り始める時間に味わうまどろみにも似ている。膝に昼寝をする猫を抱えながら、もしくは何よりも静寂の似合う隣人の家で本を読むのは彼女にとっての日常だが、不意にこうして外で読書に浸りたくなる時がある。氷が溶けきってしまった紅茶を新しいそれに変えて、立てた人差し指を口の前に微笑む、熊のようなマスターに、は深々と頭を下げた。
ここから駅まで徒歩10分、走って7分程度だろうか。降りしきる雨の中を走りぬけて自宅にたどり着くならはそれを躊躇わないが、電車に乗らなければならない。彼女は基本的に周囲の目などほとんど気にかけないが、だからといって率先して注目を集めるほど馬鹿ではない。静かではあるが、隙間なく降りしきる雨の中、5分も外に出ていれば濡れ鼠だ。
この雨がもう少し和らぐまで、マスターには悪いけれど店先を貸してもらおうと決めたとき。雨に濡れたアスファルトの上をまるで滑空するように走るBMWが、カフェの
――の目の前で静かに停車した。なまめかしくすら見えるメタリックカラーのそれ。 (すげぇ・・、左ハンドルだ) 運転席のパワーウィンドウがゆっくりと下りて、そこにあったのは見知った金髪だった。
ゆるやかに、身体にわずかなGを感じることもなく滑るように走り出す。男の人のそれらしく、細くて長い指が慣れたようにギアをシフトさせ、それに呼応するように車はスピードに乗った。右側にあるウィンドウを雨の雫が後ろに流れていく。
「左ハンドルに乗るのは、初めてかい?」
「あ・・、すいません。じろじろ見ちゃって」
咄嗟に前の車に目をやったに、グラハムは柔らかい笑みをのぞかせた。
「外車に乗るのって初めてで・・うわ、やっぱカッコイイですね」
「に言われると、その言葉は格別だよ」
穏やかなハンドルさばきに流れるようなギアチェンジ。不安など一切感じさせないグラハムの隣で、は見慣れない計器の数々をまじまじと見つめては、へーとかほーとかいう言葉をほとんど無意識に零していた。
――さすがは高級車、雨が降りしきっていようと防音設備はばっちりだ。堪えきれなくなったようにくすくすと笑い声を忍ばせるグラハムを横目に、は上質のシートに体をうずめる。
「でもほんとありがとうございます。すごい助かりました」
雨宿りをしているのかな、。
灰色の空の下はどこか、街全体が色彩に欠けている。雨に濡れてつややかな街路樹はそれでも、青空の下にあるほうが映えて見えた。行き交う人々がもつ色鮮やかな傘は、まるでモザイク画の一部のよう。それらを映す漆黒は、グラハムを見つけて淡い笑みを浮かべた。ぺこりと小さく会釈する。
「ここで会ったのも何かの縁だ。乗りたまえ、送っていってあげよう」
「突然降り出した雨に困るを、放っておくわけにはいかないさ」
「すいません、ありがとうございます」
世界の輪郭が雨の雫に溶け出していく。じわりとゆがみ、そして瞬く間に後ろへ流れていく。が一番好きなのは、歩くペースだ。目に映りこむものを取り入れて、噛み砕いて、飲み込む時間のあるスピード。車に乗って眺める世界はの前に、すべてが等しく同じ価値のものとなって通り過ぎていく。自分の中が、からっぽになっていく感覚
――温めたミルクの表面にできる皮膜のような。白くてうすっぺらなそれが、思考をすっぽり包み込む。
「。君は一目惚れを信じるか?」
鮮やかな若草色はまっすぐに前を向いていて、見上げた端整な横顔は表情を読ませない。
「さぁ・・たまに、話は聞いたりしますけど」
「ふむ、それは君の友人や本の中での話かな?
――そうではない。は、一目惚れを理解するか?」
きゅう、と喉の奥に呼気が詰まる。は無意識のうちに視線を前の車へと戻し、眉間にうすい皺を刻んだ。詰まった息を唾液と共に飲みくだし、下唇を舌でなぞる。
「
―――・・理解しません」
「だろうな。君なら、そう言うだろうと思っていたよ」
「・・グラハムは、理解しますか。一目惚れを」
若草色は柔らかに笑んだ。はにかむように、見守るように、慈しむように。そして鋭く、切り込むように。
「私は軽々しく、嘘偽りを口にするような男ではないよ。・・・それがたとえ、少し前の話だとしても」
マンションのエントランスに滑り込み、はぷるぷると首を振った。わずかな雫が髪をつたい、首筋をなぞる。ぺたりと肌に吸い付くTシャツと、妙な生温かさが気持ち悪かった。
「あ、ティエリア。おかえりよー」
「・・・・・」
コンビニのビニール傘を手に(ヤツは案外、こういうところにひどく無頓着だ)ティエリアは怪訝そうに整った眉を寄せたあと、その白皙を綺麗にゆがめた。たたまれた傘の先端からぽたりぽたり水滴が落ちて、タイルの隙間を縫うように流れていく。
「天気予報はくもりって言ってたのにさー。急に雨降るからすげー困った」
「・・その割には濡れていないが」
階段を先に上るティエリアの後に続いていたは、そこで数秒立ち止まった。降り止む気配のない雨音が、思考をクリアにしていく。ぴちょん。水たまりに雫がはねる音がする。「・・どうした、」 怪訝そうな顔で振り返った紫苑に、はへらりと笑った。そして一音一音を丁寧に、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「うん、車で送ってもらったんだ。
―――・・ジェイドに」
すぅ、と眉間に皺を寄せたティエリアは、おそろしく面倒くさそうにため息をついた。
「・・・あの過保護な保護者か」
「そ。偶然通りかかったから、乗っけてもらった」
この衝動は、おそろしく純粋なものだった。くっきりした輪郭を持つあのひとの声と、やわらかな若草色が脳裏を過ぎる。ただでさえ急降下しやすいティエリアの機嫌をわざわざ下げる必要などないと思ったし、告げる義務などないと思った。は自身の都合で、取捨選択をかけることをためらわない。向こうもまた同じなのだと理解している。
おかえり、雨大変だったな。部屋の奥から、大あくびを漏らしつつ出迎えてくれた猫を掬い上げる。普通よりもつややかで毛先の長い、彼自慢の真紅に指を絡める。外は雨だというのに、お日さまのにおいのする毛並みに鼻先をうずめた。
「・・・わけ、わかんね」
金曜の午後の雨
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209:金曜の午後の雨 ...鴉の鉤爪 / ざっくばらんで雑多なお題(日本語編)
writing date 08.06.24 up date 08.07.26
グラハム外車説と、わずかに揺らぐヒロイン。保護者ジェイドは名前だけの登場です。