Colorful
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雨粒がビニール傘を打ちつける、ばたばたという音がする。薄暗い空は灰色で埋め尽くされていて、大きなしずくがひっきりなしに落ちてくる。透明な傘の下からティエリアは空を見上げ、そして彼の隣でひどく楽しそうにひょこひょこ歩く濡れ鼠を横目に捉えた。形のいい、薄い唇から重々しいため息が吐き出される。
この大雨の中、傘を差していない阿呆は何が楽しいのか知らないが妙にご機嫌で、雨の音にまぎれた鼻歌が時々耳に聞こえてくる。道にできた大きな水たまりの前で瞬間立ち止まり、すぅと息を吸い込んだかと思えば、いきなり地を蹴ってそれを飛び越える。ぴしゃん、と足元ではねる水にすらひどく無防備に笑顔を零して。
「早くしろよ、ティエリア」
振り返ったの額には、十分すぎるほど雨を吸い込んだ黒髪がぺったり張り付いている。まるで犬猫がそうするように首をぷるぷると振ると、細かな水滴があたりに飛び散った。後ろでひとつに結んだ髪から雨の雫が伝い、Tシャツをじっとりと濡らしている。体の線にぴったりと沿うそれの裾や袖を、ひどく面倒そうな顔で絞っていたのはもう5分も前の話だ。いっこうに降り止む気配を見せない雨空を見上げて、あれは抵抗を放棄した。
「
――・・こんな雨の日に、わざわざご苦労なことだな」
「うん?」
きょとん、と見上げてくる漆黒はやはり、明らかに楽しげだった。ティエリアはその深紅を苛立たしげに細め、小さく舌打ちをもらす。
「出発したときは晴れてたんだってば。じゃなかったらハレルヤが連れてってくれるわけないし」
ティエリアはそもそも、自身の傘を分け与えてやる選択肢など持ち合わせていない。ひとつの傘を占有していても、こう降りしきる雨の中では濡れないことなど不可能なのだ。傘を半分差し出せば、体の半分が雨に打たれることは目に見えている。
けれど、この雨の中で傘も差さない阿呆は、傘に入れて欲しい素振りをひとしずくの雨粒ほどだって見せない。至極当然のように、ほんの少しの逡巡も、わずかな期待も見せずに。
――― それがティエリアには腹立たしい。傘を貸せと言われたら何の例外もなく拒絶するのは決定事項だし、自分から傘に入れてやる気などさらさらない。けれどそれはティエリアが選ぶべきで、それよりも前にこの阿呆が選んでいいものではないのだ。ぽたりぽたりと黒髪の先から雫をしたたらせ、全身の衣服の色を変えた阿呆が進んで選ぶべき選択肢ではない。
「ティエリアさぁ、ハレルヤがなんの仕事してるか知ってる? 結局教えてくんなかったんだよなー」
ティエリアの苛立ちは向かう矛先を知らず、胸のうちでぶすぶすとくすぶり黒煙を上げる。喉笛を押さえつけられたような息苦しさが全身を駆け巡り、鈍い痛みがゆっくりと伝播して指先が震えた。視界の端であれはいつもと変わらず、へらりとした笑みをのぞかせる。
さめざめと降りしきる雨の中にあっても尚、自分の耳があれの声をはっきりと拾い上げることが不思議だった。記憶がフラッシュバックする。雨音が意味を成さない人々の喧騒へと形を変える。まるで水を含んだように境界線がぼんやり滲んで、モノクロの背景が曖昧に揺らぐ。けれどそのなかで、ただひとつだけ存在する色のカタマリ。鮮烈なほどの色彩に飾られたそれの紡ぐ言葉は、触れることが叶いそうなほどにくっきりとした輪郭を持って。
ティエリア! やぁっと見つけた。
頭の奥で声がする。聞き逃しかねないほどかすかな、けれど聞き逃すことを許さない鷹揚なそれ。ティエリアから正しい呼吸を奪い、全身の血を沸騰させる。傘の柄を握る手に力が入る
―――なくなってしまえばいいと思った。息の仕方を忘れた肺や、痛みを感じる心臓など、必要ない。
「・・外ヅラのよさなら、天下一品だな」
ほとんど無意識に零れたティエリアの言葉を、はどうも聞き漏らさなかったらしい。それまで顔中に広がっていた笑顔が嘘のように消え、そこには一瞬の無表情があった。敵意も害意もなく、一切の感情を切り捨てた漆黒。深い森の奥にひっそりと佇む湖のような、しんと冷たい空気をまとって、その漆黒はじいとティエリアを見据えている。夜の底のような静謐を湛えて、深紅を飲み込もうとする。静寂。終わりの見えない闇の色。・・・きっとこの漆黒は、自分自身以外の何者にも揺るがされないのだろう。眩暈にも似た不安定のなかで深紅が吼える。
―――どうして俺が、
「まぁ・・・・愛想のよさは、自覚してますけどね」
俺だけが、こんなにも煩わされなければならないのだ。
「でもそれにしたって、ハレルヤに愛嬌振りまいても意味なくね?」
「・・・・・・」
「ハレルヤとは対等だよ。イコール。媚びる必要なんかどこにもない」
奴らは多分、似たもの同士なのだ。気まぐれで矜持が高く、誰とでも馴染めるくせに誰とも親しくなろうとしない。自分の周囲を半透明の膜で包み、自分に伸ばされる腕を注意深く選別する。華やかで賑やかな場の中心でへらへら笑いながら、けれどその澄み切った瞳はひどく冷静に人々を見定めている。客観的であるというよりは、冷淡に。まさに今、世界を濡らすこの冷たい雨のように。
「ははっ、変なティエリア。早く帰ろーよ、スニーカーの中までぐしょぐしょだし」
ハレルヤとその双子の兄 アレルヤ・ハプティズムには、自身の気に入ったものを手元に置きたがる性質がある。ティエリアはそれを、本能的に知っていた。彼らに伸ばされる幾多の腕を気に留めず、自身の欲しいものに手を伸ばす傲慢。ただ、アレルヤのそれは手を伸ばしても無理に触れようとはせず、慈しむように見守る控えめさを持ち合わせていて、ハレルヤのそれは喉笛を食い千切るような強引さで発揮され、拒否を許さない蹂躙と酷似している。違いはあるがどちらにせよ、傲慢には違いない。
―――そうであるとしたら、はどうなのだろう。
うかがい知ることのできない湖の底、どんな馬鹿をしでかしていても静謐に満たされた漆黒は、そこで一体何を見ている? ティエリアは、の無関心が彼女の周囲ではなく、彼女自身に向けられていることを知っている。伸ばされる腕をのらりくらりとかわしながら、あれは最終的に誰かの腕を取るのだろうか。それとも、薄っぺらな膜の内側で自身の膝を抱える腕は、いつか誰かに伸ばされるのだろうか。
透明な傘の下から見上げる空は鬱々とした灰色で、ティエリアにずしりと圧し掛かる。
ふぇ・・、くしッ
アパートのエントランスに入り、ようやく雨から完全に隔離されたときだった。郵便受けから手紙を取り出すティエリアの後ろで、控えめなくしゃみと鼻を啜る音が続く。“あ” に無理やり濁点をつけたような声を口というよりは喉で鳴らし、は後ろで結わえた髪をしぼった。ぼたぼたと大量の水がタイルに撥ねる。ほんの1分足らずでできあがった水たまりに、顔をしかめたのはティエリアだけではない。
「・・・・我ながら、随分ぬれたわぁ」
階段を上がりながら振り返り、自身が一歩を踏み出すたびにできた水たまりを見て、はしみじみと呟いた。
「そう思うならさっさと上がれ」
「・・うぁー、これ絶対ぬれてるよ。パン 「それ以上言ったら蹴落とす」
「スンマセン」
涙葬
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涙葬 ... ジャベリン
writing date 08.07.06 up date 08.08.03
会話の少なさに絶望する。