Colorful
:35
昨日から降り続いている雨はまだ、止む気配を見せていない。厚い雲に覆われた空は、夜をいっそう暗くしている。出来合いのもので適当に夕飯を終えたティエリアは、新しく隣人の本棚から抜き出してきた本を広げていた。ティエリアは雨を好んでいないが、けれどしとしとと雨の降る夜は嫌いではない。耳朶をやわらかく打つ雨音が絶えないだけ、世界がしんと静まり返っているような感覚。知らず研ぎ澄まされていた集中のせいか、手元に広げた本から活字が躍りだして、何の抵抗もなくティエリアの思考にすべりこむ。まあるくやさしい表現が心地よい。
けれど、その至福をティエリアから奪ったのは小さなノックの音だった。舌打ちをして本から顔を上げた彼の耳にまた、その音が届く。標準装備の不機嫌が、しかし片方の眉を上げた怪訝そうな表情にすり替わったのは、そのノックの音が玄関からではなくベランダから聞こえてきたからだった。ぱちりと深紅を瞬かせる間にも今度は先程より大きな音が届いて、ようやくティエリアは相手がどうやら苛立ち始めたことを理解する。
ス、と開けられたカーテンの向こう側に、室内から漏れた光が降りしきる雨を照らした。明日もまだ降り続くだろうと伝えた天気予報を思い出す。と、その時ガタガタと目の前の戸が揺れて、ティエリアは無意識に身体を引いた。ベランダに通じるガラス戸は半分がすりガラスになっているのだが、その下部に何か赤い塊が透けて見える。
「だぁーっ、反応が遅ェんだよ女男! その耳、ちゃんと聞こえてんだろーな?」
戸を開けるなり乱暴な口を利いた赤い塊を一瞥し、ティエリアは迷うことなくカーテンを閉じた。
「ああっ、嘘だよじょーだん! 女顔とか言わねーからカーテン開けろ!」
自然の摂理や世の中の理、常識やその他諸々をかるく無視し、ひどく特異的に成り立っている世界の上でさも当然のように胡坐をかいている、喋るバカ猫
――ルークはその毛足の長い真紅の毛並みを雨に濡らしながら、ティエリア宅のベランダにちょこんと座っていた。ゆらゆらと落ち着かない様子で翡翠の瞳が室内を見回す。
「・・何の用だ」
低く唸るような声音でティエリアがそう言ったとき、ルークは傍目にも分かるほど、びくりと体をすくませた。普段ならぴんっと興味の対象へ向けている耳は、今や力なく頭にぺったり伏せられていて、しなやかに揺れているはずの尻尾は濡れたコンクリートの上でピクリとも動こうとしない。ちらとこちらを見上げた翡翠はしかし、まるで逃げるようにすいと逸らされる。ティエリアは不愉快そうに眉間に薄い皺を刻んだ。
「・・・・用がないなら帰れ。邪魔だ」
このときティエリアは、目の前の猫の体が一回りほど縮んだような気がした。いつもはふわふわの毛並みが、雨を吸い込んだせいで小さく見えるのかと思っていたのだが、どうもそれだけが原因ではないらしい。うなだれ、その背を丸めたルークは、このまま夜の雨の中に掻き消えてしまいそうな気がした。すん、と猫が鼻を啜る。
「・・・・・・・・・・が、・・熱、出して・・寝込んでんだ」
――・・なんだと? ティエリアは知らず、その形の良い眉を思いきりひそめる。
「・・・・・だいじょうぶって、言うけど・・全然 熱下がんなくて、すげぇ、苦しそうで・・」
「いつからだ」
「・・きのう、びしょ濡れで帰ってきて・・・・その夜、から」
ふぇ・・、くしッ
控えめなくしゃみが脳裏を過ぎる。
―――まったく、どこまで愚かなんだあの女は! ほとんど夏のような日々が続いているが、それでもあれだけ雨に打たれれば身体も冷えるに決まっている。風邪のひとつも引いたことなんてありません、とひどく真顔で言い切りそうなあれが、けれどその日の間に熱を出すほどだったのだ。丈夫そうに見えて丈夫に決まっているあれの身体に、どれだけのストレスがかかっていたのかなんてティエリアは知らない、知りようがないのだ。ティエリアは、片手を静かに握り締める。
「・・誰か人間は来ているんだろう? あれの過保護な保護者かなにかが」
にはその生活を援助してくれている保護者がいる、というのをティエリアは本人から聞き及んでいた。といっても話の内容はほとんどその保護者に対する愚痴や不満で、ティエリアは保護者と顔を合わせたことはない。“過保護” というのはティエリアの評ではなく、あくまでも保護下にあるの言葉だ。保護される立場にあるがそういうのだからよっぽどなのだろうと思うのだが、それでもその人間について喋っているときのあれのやわらかな表情を、どこか新鮮に思ったのを覚えている。
そんな保護者が、彼女の不調に対して無関心でいるはずがないと思っての言葉に、けれどルークはその小さな頭をゆるゆると横に振った。猫の体がどんどん小さくなっていく。
「・・・誰も、来ていないのか」
こくん、とうなずくその動きはあまりに小さく、見逃しかねないほど些細なものだった。
「・・ッだって、誰にも言うなって・・・! 寝てれば治るから、ジェイドにも、お前にも、絶対誰にも言うなって・・!」
力の込めすぎだろうか、小さくなった体がぶるぶると震えて、言葉が感情に飲み込まれていく。今にも零れ落ちそうな涙を湛え、翡翠の瞳がゆらゆらと揺れた。ぎゅ、と口をかたく引き結んで、涙が落ちるのを必死に耐えている小さな猫。喉の奥に詰まった呼気を、ティエリアは無意識に飲み下す。
「
――・・頼む、来てくれ。一晩中なんて言わない、今だけでいいから・・!」
「・・・・・・お前の飼い主は、俺には言うなと言ったんじゃなかったのか」
鈍い痛みが全身を駆け抜け、指先が震えた。全身の細胞が一瞬の呼吸困難に喘ぐ。
「・・言った。確かにはそう言ったけど・・ッ今の俺のカッコじゃ、汗を拭いてやることだって・・!」
――― その頬を滑り落ちた雫はきっと、雨だったのだろう。
ス、と視線を逸らしたティエリアは底知れない闇を含んだ夜の空を眺めた。部屋の中から漏れた光が、雨の軌跡を照らし出す。振り返り、見遣った時計が指し示す時刻は8時過ぎ。ティエリアはつかの間瞠目し、薄く形のよい唇から吐息を漏らす。びくりと身体を揺らし、けれど反射的に顔を上げた猫の瞳はもう潤んでなどいなかった。代わりにその翡翠に宿る鮮烈なまでの光、それはティエリアに漆黒を連想させる。
「・・・さっさと戻れ、邪魔だ」
「!
――・・お前っ、」
ギラリと鮮やかな翡翠が攻撃的に輝く。腰を上げたバカ猫はこの一瞬で、こちらに飛び掛ってくる準備を終えたらしい。小さな体から放たれる敵意はそのくせ一人前で、ちりちりと首の後ろが焦げるような害意を的確に向けてくる。・・・どいつもこいつも、あれの周りは馬鹿ばっかりだ。
「・・誰が行かないと言った。お前が向こうに戻らず、誰が鍵を開けると?」
「・・・・・・・へっ?」
「あの阿呆はもしかして、朝から何も口にしていないのか」
ティエリアは生まれて初めて、猫の呆気に取られた表情を見た。これは思った以上の間抜け面である。へにゃりと垂れた長いひげが、ルークがうなずくのに従ってゆらゆらと揺れる。
「・・・あのバカのことだ、どうせ風邪薬の一つも満足に用意してないんだろう?」
「・・・・・・・・」
「これから、薬と飲み物を買ってくる。お前は俺が戻ってきたら鍵を開けろ」
「お、おう」
「・・それまで部屋で大人しくしていろ。いいな」
「・・、了解っ!」
パッと身を翻したバカ猫は、鮮やかな身のこなしで隣のベランダに消える。・・・はぁ。大きなため息を滲ませながらティエリアは財布を手に取り、ベランダの鍵を閉め、電気を消す。おそらく今夜は戻ってこないのだろう、明日の講義予定なんて考えるのは時間の無駄だ。ほとんど無自覚にため息を吐き出しながら、ポケットに捻じ込んであるはずの携帯を確認する。いざとなったらロックオンでも呼びつけて車を寄越させればいい。彼のことだ、事情を話せばきっとすぐに駆けつけてくれる。
傘を通して見上げた空はどこまでも深い闇の色で、降りしきる雨はひどく冷たい。
夜がおちる速度
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夜がおちる速度 ... ジャベリン
writing date 08.07.16 up date 08.08.09
ベタっちゃベタなヒロイン風邪ネタ・・・・の割に当の本人が出てこないカラフルマジック!