Colorful
:44
バイト先である本屋 鳩羽書房の出入り口は、今時珍しい手動のドアだ。アルミのサッシに入り込んだ砂や砂利のせいで、時々スムーズな開閉を拒否するスライド式のドアには小さな鐘がつけられており、客の出入りがあるとちいさく声を上げる。カウンターの中で夏目漱石を広げていたはその軽やかな音を耳に留め、ちらりと目を上げた。人影が本棚の間に消えたのを確認し、彼女は再び本に目を落とす。
いらっしゃいませ、を言わないのはなにもの職務怠慢ではなく(怠慢が要素のひとつであることは否定しない)、昨年還暦を迎えた店主の意向だ。元々この店は、とある大学の教授職を辞してから趣味ではじめたようなもので、よくよく売り上げのことなど考えていないために(はなしを聞いたところによると、店主はかなり裕福ならしい)、いかにもそれらしい古書から絶版になって久しい専門書にはたまた洋書など、たいそうマニアックな品揃えの、まるで図書館のような本屋なのだが、実際店主に話を聞いたところそういう使い方をしてもらってかまわないと言うのだから妙な話である。図書館に行って、いらっしゃいませなんて言われたことないだろう?、と至極真面目な顔で言われたとき、この人の孫に生まれたかったと心底思ったのをおぼえている。
はここで本を読むのが好きだ。カウンターの中、折りたたみ式のぎしぎしきしむ椅子に腰掛け、太い柱に背中を寄りかからせてアイスコーヒーを片手に読みふける。狭い店の中に充満する紙の匂い、本の海に溺れながら整然と紡がれた活字を一言一言噛み締めるように文章を食む。文庫本ではなかなか感じられない、本が手にずしりと馴染む感覚。ただでさえ薄いアイスコーヒーなのに、気が付いたら氷が溶けてよりいっそう水っぽくなることを厭わない贅沢な時間。
「
―――・・いらっしゃいませ、ぐらい言ったらどうだ」
だからその不遜極まりない無愛想な声が聞こえたとき、は瞬間的に混乱した。本を広げているとき、その声が耳に届くのは彼女にとってそう珍しいことではなく、けれどそれはこの場に再現される話ではない。声の主を確認するより先に周囲をチラと見回し、自分が座っているのがベッドではないことを確かめる。その時、ふっと頭上に影が差し、それを不思議に思うよりはやく掲げられた本が頭頂部を直撃しては小さく呻いた。
「・・・ってぇ、いきなり何すんだよティエリアお前ええ」
作業台に沈み込み、目尻にじわりと涙の浮かんだ目で睨みあげても当のティエリアはそれら全てを完全無視してあたりを見回している。・・運がよかったなこのヤロウ、は目線一つこちらに寄越さないティエリアに舌打ちをくれる。もしもこれが下からくぐってカウンター内に出入りできるような造りの机だったら、その向こう脛を蹴り上げてくれたものを!
「何しに来たんだよ、嫌がらせとか言ったらほんとブッ飛ばすかんな」
「本を買いに来る以外に、本屋に来る意味がないだろう」
呆れかえった口調のティエリアに、実際のところそれ以外の利用目的もあることを伝えるのは面倒だったので、甘んじてそのセリフを受け入れてやる。ティエリアにここをしばしば利用されたら自分の身が休まらないし何より、気が付いたら常連客になっていたあのひとと鉢合わせるわけにはいかない。災厄の降りかかる先が他の誰でもない自分であることは、だって重々承知している。
「言ってくれたら、買って持ってったのに」
「・・近くを通り過ぎただけだ。特に目的があったわけじゃない」
「ふぅん? ・・・・・・・ティエリアさァ、その本一割引する話があるって言ったら、のる?」
本棚にぎっしり並べられた本の背表紙を興味深げに眺めていたティエリアは、その言葉にようやく視線を向けてきた。けれどそれは関心を引かれて、というよりは怪しむような胡乱なもので、こういうときばっかりカンが冴えているのだからまったく面倒なヤツだと思う。は一瞬だってそんな逡巡を垣間見せず、にたりとくちびるの端を吊り上げた。
「これから閉店の準備するんだけどさ、手伝ってくれるんなら一割引してあげてもいーよ」
「・・・・・・・・・手伝ってやるが、割引の必要はない」
「おりょ? 改心でもしたの、ティエリア」
「お前にだけは、貸しを作りたくないからな」
ひっでーの、はそう口の中でちゃかすように呟きながら、わずかに奥歯を噛み締める。ティエリアに貸しを作っているのはむしろ自分だという自覚はにとって苦く、けれど知らないふりをできるほどヤツとの距離は遠くない。ふとしたとき、先を歩くティエリアを呼びとめようと伸ばした手が、見慣れぬ青白い手と重なるたびにはほとんど戦慄する。赤い引っ掻き傷をつけた知らない腕
―――どくん、と心臓がひときわ強く鼓を打ち、動揺に視界が一瞬揺らぐ。“貸し” を返そうとすればするほど、じわりじわり積み重なっていくその重さが怖くてたまらない。そのくせ、この無駄によく回る口はヤツの歩みを鈍らせようとするのだ、天と地ほどもある自己矛盾に泣きたくなる。
「・・? どうかしたのか、」
「・・・・・・・・・あー、いや、なんでもない。ただ明日の天気は槍でも降るのかと思っただけ」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
たとえばこんな風に、くるくる回る舌は私にとってすらどうでもいい適当を並べ立て、宝石のような深紅に剣呑を宿らせる。私はティエリアの神経をまんべんなくすべて均等に逆撫ですることについて上達した自覚がある、反対にティエリアはそうやって生じた苛立ちを呆れた視線とため息で押し流す技術を手に入れた。は、自分がもっとも心地よく人と付き合える距離を知っている、相手と距離を測っていることを悟らせない術も、それがお互いにとって一番楽なポジションとして関係を組み上げていくことにも慣れている。彼女は多くの場合自分から腕を伸ばさない、感情のままに腕を伸ばしていたら怪我をする。ただ腕を伸ばすだけより、自分が動いて距離を詰めるなりあけるなりしたほうが確実だ
―――確実だと、知っているのに。
「ほんとに割引しなくてよかったの、冗談言ったつもりじゃなかったんだけど」
「必要ない、・・どうせ後からお前が入れるんだろう」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・お見通し、です か」
最後にシャッターを閉めて仕事は終わり。鳩羽書房の終業時間は明確に決められていない、これも店主の判断だ。がバイトに入っているときは夜9時過ぎまで明かりがついているし、そうでないときは夕方6時にはもうシャッターが下りている。こんな経営で生活費を稼げるほど純利益がでるわけもないが、しかしバイトを一人雇った上で運営を続けていけるだけの利益はでているのだから世の中とはわからないものである。
――店主が独自のルートで取り寄せたという本が五万円を軽く超えていたときには、背筋が凍った。
夏の夜空の下には、しぶとく残る夏の熱気と足早な秋の気配が絶妙に混じりあって流れている。肺いっぱいに夜を吸い込み、背伸びをする間にも早々と帰り道を歩き始めていたティエリアの背中を追いかけようと、は一歩を踏み出した。そんな彼らのとなりを一台のBMWが通り過ぎ、夜に溶けていく。
光灰
novel / next
光灰 / ジャベリン
writing date 08.09.19 up date 08.10.01
変化をおそれるおくびょうもの