Colorful
:45
「
――・・少し、時間をもらってもかまわないかな?」
どこにだって、暗黙の了解、不文律というものが存在する。きちんと定められた規則や決まりではないが、ほとんどの人間がそれを把握し、了解している類のもの。社会に出れば 常識 と名前を変える不文律は大学内にも存在し、ティエリアの所属する研究室にも深く根を下ろしていた。学部生や院生、それに企業からの出向もあわせて、彼らの研究室にはかなり多くの人間が所属している。割り振られた部屋も他の研究室よりいくらか多いが、特筆すべきは “学生控え室” という札の下がった空き部屋で、その名前の示すとおりに使用されている場所に彼らの不文律は存在していた。
こんこん、と手の甲でかるく壁を叩く音に、ティエリアはそれまで取り組んでいた課題に対する集中を途切れさせる。そして今この学生控え室にいるのが自分だけであることを思い出すと(夏休み中である今日、アレルヤや他の学生は来ていない)わずかに眉を寄せて扉を振り返り、そこに立っていた人間に隠そうともせず表情をゆがめた。ティエリアは数ヶ月が経った今でも、グラハムに対する嫌悪を露骨に示している。
「ふむ、この部屋に来たのは初めてだが、なかなか使い勝手がよさそうだな」
学生控え室を利用するのは学部生、それが暗黙の了解だ。ロックオンやスメラギなどの院生が利用することはあっても、ティエリアやアレルヤなど学部生のように長居するわけではない。学部卒の院生でも頻繁に使用するわけではない控え室を、外部から入ってきた院生がすすんで利用するはずもなく、それはもちろんグラハムのような企業からの研究員にも言えることだった。必然から生まれたものであっても、それが一度不文律となってしまうと予想以上の効力を発揮する。おかげでここは学部生とその友人らのオアシスであり、ティエリアもまた同様にその恩恵にあずかってきた
――そうでなければ、ここであの阿呆に待てをかけたりできるはずがない。
「・・何の用ですか」
「ふ・・、ずいぶんと怖い顔だ」
グラハム・エーカーという男の、こういう余裕ぶった態度が何よりも鼻持ちならない。彼と対峙したとき、ティエリアがほとんど反射的に抱く否定的な感情もすべて見透かしているかのような淡い微笑に吐き気がする。おそらくこの男とは根本的に分かり合えないのだろうと思う、たとえ数ヶ月前の、あの変態じみた出会いがなくとも。
「せっかく同じ研究室に所属しているんだ、交友を深めるのも悪い話ではないさ」
白々しいのだ、作られたような笑顔も当たり前のように飛び出す言葉も大袈裟なまでの身振りも。知りたくなんぞなかったが、ティエリアはこの男がいかに優れた洞察力と判断力を持ち合わせているか知っている。あの若草色が取り込む情報の量と、それを解析する処理の速さがどれほどのものか理解してしまった。・・だからこのくだらない言葉遊びが、こちらの神経を逆撫でするための言葉なのだとわかっている!
「
―――用件は、何ですか」
「いや、用と言うほどでもないんだが・・・数日前、君を見かけたのだよ。
――鳩羽書房の前で」
驚愕に目を丸くした深紅に、「ああ、やっぱりあれは君だったんだな」 と笑う姿がうつる。
「・・・・・・・・・・・は、ここまでくれば、もはや立派な異常者ですね」
「人聞きの悪い言い方はよしてくれ。君だって、あの本屋に揃っている専門書のすばらしさは理解しているだろう?」
「・・・・・だとしても、連日のように出向くなんて異常だ」
吐き捨てるようにティエリアがそう言ったとき、なぜか目の前の男は、はたと何かに気付いたように若草色をまあるくし、口元に淡い微笑みをのせた。それはどこか哀れんでいるような、悲しんでいるような表情で、だからティエリアの苛立ちはよりいっそう募る。
「・・・君は、ひとを好きになったことは?」
まただ、ティエリアは奥歯を強く噛み締める。一体なんだと言うんだ、どいつもこいつも馬鹿の一つ覚えのようにその言葉を繰り返して、これまでのすべてを根本からひっくり返そうとする。いきなり言葉を突きつけて、おまえたちは何なんだと関係に名前をつけて、既存の形に当てはめようとする。自分があの馬鹿を “好き” だなどと答えれば満足するのだろうか、馬鹿馬鹿しいにも程がある。一から十まで余計なお世話だ、何も知らないくせに。・・・煩わしいのに突き放せなくて、鬱陶しいのに振りほどけなくて、人ごみの中にあってもあの心底くだらない言葉を拾い上げる事実がどれだけ腹立たしいことなのか。自分の中にあるこのわけの分からない煩悶を、たった二文字に当てはめられてたまるか!
眼光に鋭い険を帯びたティエリアに対し、グラハムはそれまでの表情を一瞬で溶かして新しいものへと作り変えた。若草色を閃かせ、くちびるの端を吊り上げる。それが彼の自己に対する信用であり、また大人という生きものの矜持であることをティエリアは知っていた。くだらない、馬鹿げていると思ったところで、その引き出しが自分には存在しないことも。
「まぁいい、“君たちがどういう関係であろうと、私にはかかわりのないこと” だからな」
「・・・・・・・・・・・・・・・っあなたは、」
奥歯をぎり、と噛み締める。乗せられているのだと、もっと極端に言えば挑発されているのだと理解していても、それを止める術を知らなければ意味がない。
「・・あなたは、あいつをどうしたいんです?」
「・・・・・・・・どう、とは?」
「とっくに知っていたはずだ、あれは誰にも揺るがされないことを!」
初めて会ったときからそうだった、わずかな躊躇いもなくティエリアの襟首を引き寄せ、はっきり嫌悪を示した孤高。周囲との距離を一定に保つ絶妙のバランス感覚と、他を寄せ付けない暗い湖のような漆黒。自己完結などではない、なによりもまず自分に対して無関心であるために、そもそもの出発点が見当たらないのだ。持ちうるすべてを踏み台にして立つはうごかない、半透明の膜の中でひざを抱えて眠っている。差し出されている手などまるで気付いていないように、目をとじ耳をふさぎ口をつぐんで、あれは沈黙を守っている。
「・・俺やあなたじゃ揺らがない。
――・・知っていたはずだ」
グラハム・エーカーの行動が、あれにほとんど影響を与えていないことを一番よく知っているのはティエリアだ。飄々とした態度でもっとも無難に立ち回る、それをきっと当の本人は自覚していない。まるで息をするのと同じくらい当たり前に。そうして守るのだ、あれにとっての平穏を。
「・・・・・・確かに、それもあながち間違ってはいないのだろうが・・」
口元に手を当て、しばらく考えて込んでいた目の前の男はティエリアをちらりと見遣り、そして口元に苦笑を滲ませた。その若草色に宿るのが、学会発表があったばかりだというのに昼食にカップラーメンばかりを食べるようになった人間とおなじような光で、その予想外の反応にティエリアはわずかに狼狽する。
「しかし、君がそのように考えている間は、私にも幾ばくのチャンスはあるということか」
「? いきなり何を・・、」
「悩みたまえ、少年。時間はまだ残されている」
凍て蝶
novel / next
009:凍て蝶 (冬に凍って死んだ蝶) ... 鴉の鉤爪 / ざっくばらんで雑多なお題(日本語編)
writing date 08.09.21 up date 08.10.04
あんまり久しぶりすぎて、ハムハムがぶれる。