Colorful
:63
いいかげん道順を覚える羽目になってしまったとある他大学の研究室、“学生控え室” という札の下がった扉にぶら下がっているホワイトボードが彼の在室を示しているのを確認して、朱音はある種の覚悟を決めるようにひとつ呼吸をおく。冷えた空気が肺の中にすぅと流れ込む、ふさがっていないほうの手でドアノブに手をかけ薄く閉じていたまぶたをゆっくりと持ち上げると、彼女は呼びなれた名前を口にのせた。
「
―――・・ティエリア、いるー・・?」
一応は在室を確認しているためにどこかちぐはぐな感じのするセリフだが、朱音は軋んだ音を立てて開いたドアの隙間からひょっこりと顔を覗かせ、恐る恐るといった調子で言葉を紡いだ。正直、自分が是という答えを期待しているのか、否という言葉を待っているのかはっきりしない、どちらの答えが返されようとどちらも同じだけ落胆する気がする。本棚の影でふっと揺れる紫苑、漏れるため息を奥歯でかみ殺す。
「勝手に入れ、」
「あー・・そうしたいのは山々なんだけど・・・その、荷物があって」
静かな部屋に大袈裟なため息と椅子の軋む音がひびいて、朱音はティエリアがその重い腰を上げたことを理解する。怪訝そうというより得体の知れないものでも見るような、疑いの表情を隠そうともしないティエリアが本棚の間から姿を見せ、朱音は思わず逃げるように視線を逸らした。深紅の視線がよりいっそう鋭くなる、半身だけをドアの隙間に滑り込ませていた朱音は自身の背後に視線を泳がし、困ったように頬をかく。
「・・・・・・どうした」
「ちょっと、こんな拾い物を・・・、」
ギィ、と小さな悲鳴をあげる古ぼけた扉を、鋭い深紅に促されるままにゆっくりと押し開く。そしてそれまで扉のかげに隠れていた、朱音の背中にぴたりとくっついて離れない “拾い物” を目視したティエリアは、一瞬おどろきに目を丸くして、次の瞬間思い切り険のある視線を向けてくる。・・・なんだこの市中引き回しにあっている極悪人のような気分、容赦ない蔑みの視線がどすどすと音を立てて突き刺さる。
「・・ちょ、誘拐犯でも見るような目つきやめてくれる!? 拾ったの、さっき、そこで!」
「・・・・・・・・・・・・・・」
「迷子だよ、迷子! 声かけたら離れなくなったの!」
朱音の着ている上着の裾をぎゅうと握っているのは、黒髪の子どもだった。年のころは幼稚園から小学一年生といったところか、黒目黒髪という容姿からするに朱音とのセットはまるで兄弟(あえての兄弟)のように見えるが、ティエリアは彼女に兄弟などという類のものがないことを知っている。では、この生物はいったいなんなのか。ティエリアの纏う高圧的な上に拒絶を前面に押し出した雰囲気、それに呑まれたらしい子どもがひゅうと小さく喉を引きつらせて朱音の背後に逃げ込む。
「・・ティエリア、顔が怖い。にっこり笑えとは言わないから、もうちょっと何とかしてくんない?」
「無理だな、必要性を微塵も感じない」
「・・・・・・・・・そーゆー奴だよな、ティエリアって」
はぁ、とわざとらしくため息をついて朱音は自分の後ろを振り返る、背中に突き刺さる深紅の眼光を感じながら、時を止めたように表情をかたく強張らせた子どもの頭をくしゃりと撫でた。ゆるゆると足元から視線を上げた子どもの、まあるい瞳をのぞきこむようにして笑う。 大丈夫、俺が守るから。 言い含めるようにささやかれた朱音の言葉に子どもの頬がうっすらと朱を帯びる、気付いたのは朱音ではなくティエリアだ。
「・・・・それで? どうするつもりだ」
「どうしようかと思って、つれてきた」
我ながら能天気極まりないセリフだとは思うが、他に手段がないのも事実だった。あくまでもここは他大学の構内である、キャンパス内にある無駄におしゃれなカフェでコーヒーを啜る程度ならまだしも、普通は校舎内の、しかも研究室のある棟に顔なぞ出さない。ほとんど例外的に遊びに来るのに慣れてしまっただけで、馬鹿でかい敷地を有するこの私大の構内など九割九分知らないのだ、頼るところなど他にない。朱音にとってはもはや当たり前すぎて今さらどうと思うことも少なくなったティエリアのため息だが、左腕にくっついた子どもの肩はそれに敏感に反応してぴくりと震える。安心させるようにその肩に手を置いて、朱音は思い切り不機嫌そうな白皙を見上げた。
「どうしよう」
「知ったことか、自分でなんとかしろ」
「ええー、何とかできそうにないからつれてきたのに」
なー?、といいながら子どもと視線を合わせる朱音の後ろ頭を力任せに叩きつけようとして、ティエリアは寸前で踏みとどまる。
「でも早くしないと、おかーさん心配してるだろうしなァ、」
“おかーさん” という単語に反応してか、子どもの瞳がふにゃりと揺らいだ。見る見るうちに厚さを増す涙の膜、目尻に溜まったそれがぼろりとあふれ出すのにそう時間はかからず、“ヤバイ” という三文字を顔面にデカデカと書きつけた朱音の目の前で、大粒の涙が子どもの頬をはしる。ひくっ、と喉を震わせて涙をこぼす子どもを前に、朱音の顔色が一気に青ざめた。ねじやぜんまいで動いているようなぎこちなさで振り返ったその表情は、現在進行形で泣いている子どもよりもよっぽどひどいものだったとティエリアは冷静に分析する
―――・・つまりこの氷の女王は、ほんのわずかだって朱音の手助けをしなかった。
ふいっと逸らされた深紅に、確固とした殺意を抱きながら朱音は子どもに向き合い、ぼろぼろと涙を走らせるほっぺたを両手で包んだ。おやゆびで閉じたまぶたの縁をそっとなぞり、子どもの額と自分のそれをこつんと合わせる。やがて子どもが閉じていたまぶたをゆるゆると持ち上げたころ、口を開いた。
「大丈夫。絶対見つけるよ」
西の空に沈む夕日の赤に呑まれるように、大人と子どもの影が小さくなっていく。くるっと振り返った小さな影に手を振り返し、大きな影の会釈に自分も頭を下げることで応じた朱音は、それらが街の中に消えるまでぼんやりと見送った。半歩後ろにいるティエリアのため息が聞こえる。
「・・・・・ティエリア、気付いていた?」
「なにをだ」
「・・あの子が、女の子だったってこと」
「・・・・・・・・・・・・・」
娘が大変にお世話になりまして、と母親らしき人物に頭を下げられたとき、朱音とティエリアの二人は彼らには分からない程度に、けれどその実、大変混乱していた。娘?え、娘ってなに、もしかしてこの子・・・口元に笑みを浮かべたままで思考をゆっくりと再起動させた朱音は、ほっぺたに押し当てられたやわらかい感触と無邪気な言葉に、今度こそ思考をフリーズさせる。データが飛ばなかっただけ褒めてもらいたい。
「いやー・・今時の若い子って進んでんのなー、ちゅーされちったよ」
「・・・・・・不潔」
「おい、ちょっと待てティエリア、今のは聞き捨てならん」
踵を返してさっさと歩き出していた紫苑を朱音は追いかける、その背中に体当たりをかましながら、全力で男の子だと勘違いしていた女の子のささやきを思い返した・・・きっと本人には告げないのが正解だろう。
「
―――・・おねえちゃんとなかよくね、おにいちゃん」
聖母のススメ
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048:聖母のススメ ... 鴉の鉤爪 / ざっくばらんで雑多なお題(カナ交じり編)
writing date 08.11.16 up date 08.12.14
・・ま、ばればれなオチではありますが。