Colorful
:64
時刻は夜の11時過ぎ、今日一日の出来事を伝えるニュース番組をなんとなく聞き流しながら論文読破に勤しんでいたティエリアは、いきなり響き渡った騒音に美しい柳眉を吊り上げた。深夜と言っても間違いではないこの時間帯、木枯しの吹きぬける住宅街の夜はしんと静まり返っている。意識の中から締め出そうとしても無理やり捻じ込まれるドンドン、とドアを叩きつけるこれを騒音と呼ばずになんと呼ぶ? それはあたかも借金取りが債務者に脅迫まがいの取り立てを行っているようで、部屋の中にいる人間に窺いをたてるノックの意図からかけ離れ、もともとの意味など欠片も見えやしない。出てこないのなら蹴破ってでも、という意図の滲み出すそれは、ティエリアにとってほとんど暴力にも等しかった。鮮やかな深紅が怒りでその鋭さを増す、眉間に刻まれた皺とひくりと引きつった頬が彼の機嫌がどれだけ底辺を這っているかを如実にあらわしていた。
「てぃえりあー、てぃえりあー・・いないのー? うっそだぁ、でんきついてたもん、いるんだろー・・なぁてぃえ、」
――ティエリアの機嫌は底辺を這ってなどいなかった。もちろん上部をふわふわ漂ってもいない、石油を掘り当てるほどの勢いで最低値を塗り替えている真っ最中だった。鍵を開けてからドアノブをつかんで扉を押し開けるまでにかかった時間は1秒未満、扉の前で発情期の猫のような身の毛のよだつ声を絞り出していた阿呆が体を引くよりも先に、ティエリアは光の速さで扉を押し開けた。ゴツンッ、となにか硬いもの同士が正面衝突したような音のなかに、「が・・っ!」 という奇妙な呻き声が混じっていたが歯牙にもかけない。むしろそれを狙ったのだからティエリアの口元には侮蔑の笑みが浮かぶ、頭を抱えてうずくまるを見下ろす深紅の視線は、吹きぬける木枯しよりも冷え冷えとしていた。
「・・何の用だ」
「ううー・・ごめんなさい、」
ぐし、と鼻を啜ったそれから飛び出した謝罪の言葉にティエリアはひとつまばたきをする、そして次の瞬間、第六感が打ち鳴らした警鐘に彼はぞわりと背筋を凍らせ、
「・・・・なァんて言うと思ったら大間違いだぞコノヤロー!」
キラン、とその漆黒が閃いたと思ったのはティエリアの気のせいではない。いきなり顔を上げたが浮かべていたのはイタズラを企む子どものようなあくどい笑顔、まるで鉄砲玉のように飛び出したは反射的に一歩後ろに引いたティエリアに対してわずかな躊躇いもなく手を伸ばし、ごろごろと喉を鳴らして飛びついた。自衛のため、蹴り飛ばそうと繰り出したティエリアの俊敏な足捌きをはひらりと回避する、羨むべき反射神経と動体視力の悪用例がこれだ。
「な・・っ、離れろこの馬鹿!」
「やーだー、だってなんかティエリアいいにおいするし」
ティエリアの肩にあごをのせてすんすんと匂いを嗅ぐ、ティエリアはその脳ミソの代わりに綿菓子か何かが詰まっているらしいすっからかんな頭を容赦なく叩き付けた。それは痛みに沈黙したが、引き剥がそうとしてもびくともしない。木枯しに遊ぶ闇色の髪がティエリアの頬をくすぐる。
「・・・・・・・・・どれだけ飲んだ」
べったりと貼り付いて剥がれないそれにティエリアは重々しいため息をつき、呆れ果てたように言葉を紡いだ。こういうときの抵抗はほとんどの場合無駄になり、しかもこれは厄介なことに抵抗すればするだけ調子に乗る。諦めるなら早い段階が正解だ、言葉の通じない阿呆は放置するに限る。・・ふわ、と香るアルコールの甘やかな匂いに、ティエリアは眉根を寄せた。
「んー・・・、ごはんたべながら白あけてー、おしゃべりしながら赤あけたー」
「・・・ワインか」
「そうそう。・・あ、きいてティエリア、あれ食べたよ・・・・・・えっと、なんだっけな、ペニシリウムの生えたチーズ」
「・・・ブルーチーズ」
わざわざアオカビを属名で言い表すあたり、完全に酔いが回りきっているわけでもないらしい。けれど既に言葉の端々は眠気にとろけはじめて舌足らずになっている、一音一音をゆっくり丁寧に紡ぐ様子は、先日これが拾ってきた子どもを彷彿とさせた。・・ただ、普通子どもは酒の臭気をまとわない。図体の生育に頭の成長が追いつかなかったらしいこの可哀想な哺乳類は、ティエリアの肩にずるりともたれかかったままだ。
「アルコールは弱いんじゃなかったのか」
「んー・・まぁつよくはないけど・・」
ティエリアからの表情はうかがえない、けれど不意に空気が揺らいだ原因はこれにあるのだろうと思った。
「
―――・・きょうは、お・・じゃなくて、わたしにとってとくべつな日なわけですよ、うん」
「・・特別な日?」
「うむ、実にスペシャル・・わんだほーな日なのさ!」
言葉の真意を聞き返そうとして、けれど何がおかしいのか、けらけら一人で笑い声を上げているに聞いても無駄なことをティエリアは一瞬で悟る。普段は突拍子もないことを突然言い放ったりするものの、要領を得ない喋り方をするような人間ではないはずだが、今ばかりはまともな会話すら覚束無い。自身のこめかみから額にかけてをてのひらで覆って大きなため息をついたティエリアだが、肩に預けられる重量がいきなり増したことに口元を引きつらせる、重力に従って膝からずるずると崩れようとするそれ。
「・・っここで寝る奴があるか!」
「は・・っ、いや、ねてなんかないです、まねきんせんせ・・」
「・・・・・・普段の授業態度が知れるな」
ひゅ、と空気の塊を飲み込んだそれはどうも、羞恥に顔を染め上げているらしい。黒髪の間からわずかにのぞく耳が見る見るうちに朱色に染まる。が、いつもよりも多く頭のネジが外れているそれが羞恥を忘れるのは早かった。
「・・あ、そうだ。なぁティエリア、今なんじ?」
「君のその手首にあるのは腕時計じゃないとでも?」
「ん、時計はっけーん」
ティエリアの肩にあごを改めて乗せなおしたは、ぐっと腕を伸ばしてコートの袖に隠れた腕時計を引き出した。その妙にたどたどしい行動をティエリアは横目で確認していたが、完全に自身の背中にあるの腕時計は見えない。現在の時刻をティエリアが尋ねようとしたタイミングで猫はふあふあと大あくびを漏らし、夜の底のような漆黒を眠気にたゆませる。まばたきの回数の多さが、限界がやってきたことを伝えていた。
「・・・・・・あ、まだ きょう だ」
「・・? なんだそれは」
「んー・・・・・・・・・・・・・や、なんでもない」
白皙に刻まれる眉間のしわが一本増える、当のは口元にへらへらと軽薄な笑みを浮かべながら大きく一歩下がった、・・体の支えを失って軸をぶらしたのは彼か彼女か。剣呑さを帯びる深紅の前ではとろりと笑う、吹きぬける冬の息吹はしんと冷え切っているが、目の前のそれにとってはもはや無関係なものらしい。ぽっかりとできたひだまりの中、猫がなあなあと喉を鳴らす。
「うむ、まにあってよかった。あと五分だもんな、ぎりぎりセーフ!」
「・・・・・・・・・・・・・」
「べつになんも企んだりとかしてないよ、ただの自己まんぞく、だから気にすんな」
「・・・・もういい、わかったからさっさと寝ろ」
睡眠に片足突っ込んだ状態で、はこてんとうなずいた。
「んー・・じゃあティエリア、おやすみなさい。・・・・・・また、あした」
日付変更線を
越えて
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102:日付変更線を越えて ... 鴉の鉤爪 / ざっくばらんで雑多なお題(日本語編)
writing date 08.11.19 up date 08.12.16
・・行動と甘さがどうしても一緒になってくれなくて困っています。