Colorful
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馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、ここまで馬鹿だと馬鹿ということすら馬鹿らしい。ティエリアはココアパウダーとビターチョコレートでコーティングされた、まさにおもちゃのようなケーキをフォークで少しずつ削り取っては口に運び、いちいちしあわせそうに目を細める底なしの阿呆を前に思い切りため息をついた。「遅れたのはティエリアなんだから、お詫びにケーキのひとつでもおごるのがフツーじゃね?」 という一般常識になぞらえない、図々しさのみで成り立っている阿呆の辞書を引っ張り出されたティエリアは、正直そんなもの破り捨てて踏みにじってやりたい気持ちでいっぱいだったのだが、とりあえず従ってやることにした。
――どうしても、その場を離れたかったからである。
十五分前の出来事も記憶していられないらしい阿呆の代名詞、はまったくのんきな顔でチョコレートケーキをパクついている。その対面に座るティエリアは薫り高いコーヒーを口に運びながら、不機嫌をあたりにばらまいていた。通りに面している小さめのカフェで、白いコーヒーカップをくちびるに添えるティエリアは道行く人々の視線をさらうが、なにせ彼は苛立ちを隠すことを知らない。鮮やかな紫苑の髪と透けるように白い頬、その人形のような顔立ちに視線をとめた人々も、よほど鈍い人間でなければ数秒後には見なかったことにする・・絶世の美少年は背景に、堕天使ルシファーを背負っていた。
「・・・・・・・・・あのさァ、」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「ティエリア、なんで怒ってんの?」
ひとかけのケーキを口に放り込んだは、どこか憮然とした表情でそう言った。今の今までその表情にあった間抜けな笑みはことごとく鳴りを潜めている。彼女はティエリアの背後に控えた、高々と掲げた槍をいまにも振り下ろそうと構えているルシファーには気付かないが、空気が読めないというわけではなかった。自分に向けられる敵意、害意というものには敏感だが、そのほかのものにはいまいち疎い。ルシファーは決してに矛先を向けてなどいない。
「・・別に怒ってなどいない」
「じゃあ今すぐトイレ行って鏡で眉間のしわ見てこいよ、それきっとトランプ挟まるから」
くちびるをへの字に歪めたは机に肘をついた挙句、残り三分の一程度になってしまったケーキをフォークでもてあそんでいる。それはまるで、猫が瀕死のネズミを前足でいたぶっているかのようだった、バランスを失ってこてんと白い皿の上に転がる。むすっとした表情でそれを口の中に放り込むはどろりと濁った漆黒で、窓の外をにらんでいた。
ティエリアは思わず緩みそうになるくちびるを、奥歯を噛みしめることで戒めた。どこか意識して眉根を寄せる。
――機嫌の急変化に戸惑っているのはティエリア自身だ、不意に上向きになったグラフの理由がさっぱりわからない。目の前にいる阿呆の機嫌は明らかな下降線をたどっているにも関わらず、だ。いったい自分は何に対して満足したと言うのだろう・・・・・・満足、・・満足?
「別に怒っているわけじゃない。ただ、蠅の一匹も満足に追い払えない君に呆れているだけだ」
フォークを口にくわえたはそのままの姿勢で、ぐ、と言葉をのんだ。
「・・・うるさい」
「ああいう輩の取り扱いには、慣れているものだと思っていたが」
わずかに下唇を噛んだままちらりとティエリアを見上げたそれは、視線がかち合うと同時にすぐさま目を落とした。皿の上に模様を描くようにひかれたチョコレートソースをフォークの先端でいじっている、陶器と金属の擦れ合う音が耳にうるさい。まったくいくつの子どもなのかと、ティエリアがため息をつきたくなるのも当然だろう。ティエリアのそのため息にぴくりと顔をあげたは、むっつりと押し黙ったままフォークの先端を口に含んだ。
「・・んなわけないだろ、どんなアバズレだよ」
「言葉を慎めこの阿呆」
「うるさい、ひとを平然とハエ呼ばわりするティエリアには言われたくないね」
――・・つーか何笑ってんだよ、怒ってんじゃなかったっけ?
眉根を寄せ、口角を下げると対照的に、ティエリアは口の端をわずかに吊り上げる。・・満足、なるほど確かにこの機嫌の変化はそれに起因しているのかもしれない。それを言葉に当てはめるとしたら、きっと一番ちかいところにあるのは “満足” という言葉に違いない・・・・・この仄暗く、歪んだ攻撃性を内包したこれを当てはめてもいいと言うのなら。
ティエリアはフッとくちびるを綻ばせる。は確かに底なしの阿呆だが、他人の感情の機微に関して妙に聡いところがある。口元に寄せたコーヒーカップで隠したつもりだったのだが、案の定ぴくりと眉を跳ねさせたそれの漆黒はよりいっそうの濁りを帯びた。闇の底で不機嫌がゆらりと立ち昇り、引き結ばれたくちびるの奥に不満が渦巻く。不満。ティエリアはまったく素知らぬ顔でコーヒーを啜る。
「美味いな」
「・・・・・・・・・・まァね、」
低く、うなるように喉から絞り出されたのセリフはどこまでも無愛想で、しかもどこか押し付けがましい。眉間に皺を刻んだティエリアをここまでずるずる引きずってきたのはなのだ、機嫌さえよければふわふわと空まで浮かび上がるんじゃないかと思わせるほどに軽い口はきっと “そりゃまァ、わたしの行きつけですから?” とかなんとかぺらぺら捲くし立てたに違いない。不機嫌はの口を重くする、しかしそのくせお気に入りの店を褒められたことに対する喜びを隠しきれないあたりが、ティエリアの知る彼女だ。
「自分で見つけたのか?」
フォークを口にくわえたまま、はチラとティエリアを見上げた。その表情に自分を揶揄するものがないことを確認したのだろう、はやがてゆるゆると首を振る。
「・・・・・前、ロックオンに連れてきてもらった」
ありがとうございました、という店員の声と鈴の音を背に聞きながら、ティエリアはほとんど逃げるように店を後にした。手の中のレシートをぐしゃりと握りつぶし、しかしそれにも気付いていない様子でギチリと手のひらに爪を食い込ませる。自身の喉笛を押さえつけるように、服の襟首を捻りこんだティエリアはぎりぎりと奥歯を噛み締めながら足元を睨みつけた。
――・・わかっている、わかっているわかっている! 先ほどのいかにも脳みその軽そうな男などと違い、ロックオンに他意がないことなど百も承知しているし、にそのつもりがないことも十分理解している。・・わかっている、わかっているのだ。別にはこの店のことをこれまでティエリアに隠していたわけでもなんでもなく、だから今日のような機会があれば当たり前のように手を引いたであろうことも、
――自分以外の誰かの手を自慢げに引くのが、決して不自然な光景ではないことも。
仄暗い思考の影で、狂暴な感情が鎌首をもたげる。耳鳴りがするほど心臓が煩い、沸騰した血液が全身をめぐって体の細胞という細胞を蝕んでいく。侵食する熱が周囲の酸素を奪う。くるしい。きりきりと締め付けられるような痛みに、頭のてっぺんから爪先までが震えた。・・・・・もういやだ、もうこんなおもいをするのはごめんだ、たえられない。これまでだってそうだった、きっとこれからだってそうだ。もういやだ、もうたえられない、・・もう、ほうっておいてくれ・・・・・・・・・!
『
――・・ティエリア、え、ちょっ、どしたの? だいじょうぶ?』
夜を封じ込めたような漆黒の双眸を前に、ティエリアは切り立った崖の上で自白を迫られる容疑者のような気分だった。退路はもうない、どんよりと曇った灰色の空を反映した荒れ狂う日本海に飛び込むか、突きつけられたものを認めるかの二者択一。もう嫌だ、もう耐えられないと必死に繰り返したところで選択肢は増えないし、むしろ必死であればあるほど選択肢は一つに絞られていく。・・あれではまるで、自分からは離れられないのだと訴えているようなものではないか。
―――ゆるせないのだ、とどのつまり。
これのとなりに、自分以外のだれかが立っていることが。
空が堕ちる日
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177:空が堕ちる日 ... 鴉の鉤爪 / ざっくばらんで雑多なお題(日本語編)
writing date 090331 up date 090418