Colorful

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どうしてだか人の言葉を喋ることのできる不可思議な猫、ルークはそれまでが座っていたクッションの上に陣取り、ゆらゆらと真紅のしっぽを揺らしていた。宝石のような翡翠の瞳は食い入るようにテレビを見つめている、賑やかな音が多少わずらわしくはあるがティエリアはひとり静かに雑誌を広げていた。自分の専攻とはほとんど関わりのない、その自然科学系の英雑誌をFig.とその説明の部分を中心に流し読みしながら冷たくなったお茶を啜る。と知り合わなければきっと、暇つぶしにしたって手を伸ばさなかったに違いないそれ。ところどころ蛍光マーカーが引かれていたり、ページの端に普段の生活では決して聞くことのないだろう名詞の意味が走り書きされている雑誌を手に、ティエリアはわずかに口元をゆるめる。

―――ガチャン!

不意に耳をつんざく音が響いた。サッと視線を向けた先では、台所に立つが足元に広がった惨状を前に呆然と立ち尽くしている。キッチンマットの上に散らばる食器の破片が、蛍光灯の明かりをうけて鈍く光る。食器を洗っている真っ最中だったのだろう、ざあざあとシンクを流れていく水の音がひどくうるさい。

「うあ・・っ、、手、血ィ出てる・・!」
「・・・・・・え、うお」

引きつったような猫の声を聞いて初めて気付いたように、は左の人差し指を口に含んだ。棒立ちになったまま一瞬だって表情を変えなかった彼女が、やがて思い出したようにうずくまり、大きな破片を残った右手で片付けようとし始めたところでティエリアの堪忍袋の緒が切れた。うずくまっている阿呆の二の腕をつかんで無理やり立たせ、左の手をぐいと引き寄せる。

「見せてみろ、」
「・・や、だいじょぶ。舐めてりゃ治るから」
「お前の判断は当てにならない。見せろ」

何事もなかったような白い指先から、しかしじわりと赤い線が滲む。第二関節のあたりから指の腹までぱっくりと口を開けた傷から鮮血があふれ、零れ落ちそうになるそれをは再びくちびるで受けた。ちら、と上目遣いにこちらの顔色を確認するあたり怒鳴られる用意はできているようだ、手首をつかんだ腕に力を込めれば口の端が歪む。

「そんな傷を治す効果があるのか。君はつくづく人間離れしているな」
「・・ま、まァねー。隠してたんだけど実はわたしにはこんな秘められた能力が―――・・・・・ご、ごめん」

出しっぱなしになっていた流水のなかにてのひらごと突っ込んだ。びくっとのからだが震え、反射的に腕を引っ込めようとするのをティエリアは許さない、排水溝に吸い込まれていく水がわずかに色づく。なすがままにされている阿呆は、まるで他人事のようにそれをぼんやり眺めていた。痛み、というよりも水の冷たさに一瞬だけ顔をしかめたは何も言わない。・・まったくもってふざけた態度だ、ティエリアは漏れそうになる舌打ちをぎりぎり堪える。


「・・・・・・よし、これでいい」
「・・・・・・・・・・・・・・・」

風邪薬の類はないくせにやたらと絆創膏や消毒薬で充実した救急箱のふたを閉じ、ティエリアは満足げにうなずいた。手首を縛り上げてしまうのも選択肢の一つだったが、それは自身によって早々に棄却されている、それならばとティエリアが本の知識から引っ張り出してきたのが圧迫法だった。・・具体的な方法論については必要ないだろうと思って読み飛ばしていたが、まぁなんとかなる。事実、ガーゼの上から包帯をぐるぐる巻きにしたおかげか、出血は止まっているようだ――もとの指の二倍、三倍の太さまで包帯を巻きつけていれば出血していようと確認できないような気もするが、おそらく止まっているに違いない。

「お前、へったくそだなー」
「ルーク!」

の膝の上でしっぽをゆらゆらさせるルークは直後、飼い主のチョップをうけて頭を抱えた。

「ンだよ、本当のこと言っただけじゃねーか!」
「本当のことでも、言っていいことと悪いことがあるでしょーが!」
「・・・・・・・ほう、君の言いたい事はよくわかった」

ティエリアはすっくと立ち上がる、反射的にあたまを抱え込むように両手で構えたを一瞥し、ため息をひとつ残して踵を返した。台所の床には無残な乳白色の残骸がそのままの形で放置されている。

「え、いいよティエリア! わたしやるから、「ルーク、しばらくの間そこを動くな」
「りょーかーい」

こんなときばっかりぃいいい! とルークの舌戦を聞き流しながらティエリアは破片をまとめ、流し台に並べられたままになっている食器類を手に取った。粉々に砕けてしまわなかったことは不幸中の幸いだろう、おおきく三つの破片になってしまったが、小さな破片は濡れたキッチンペーパーのようなものでふき取れば問題ない。

「ごめんティエリア。後はやっとくから、だいじょぶ」

そう言って部屋と台所をつなぐドアに手をついたの背後では、毛布の塊がベッドの上でくぐもった声を上げている。

「・・・・・・・・・・・・・・」
「まァ、ベランダに干されなかっただけ感謝してほしいよね」

悪びれる素振りなど一瞬も見せず、はいけしゃあしゃあと肩を竦めた。出せ、出せよぉおおっ!とわめきつづけている猫にそのセリフが届かなかったのはいいことだったのかもしれない、のそういう冗談じみた言葉はしかし決して冗談などではないことを、ティエリアも、そしてルークも知っている。

「・・そうか。なら、俺のカバンを取ってくれないか、机の脇においてある」
「いいけど・・・・、なんで? 食後のデザートでも出てくんの?」
「今日はもう戻る」

ぱっと見開かれたの漆黒、一瞬後に鋭く眇められる瞳は剣呑を宿している。くちびるをきゅっと引き結んだは、半歩振り返りかけた姿勢で足の裏に根っこでも生えたように動きを止めた。

「・・ふーん、何、なんか気に食わなかった?」

元々、この程度の挑発にのってくるようなではない。挑発されても倍加的に増幅して挑発し返し、向こうが手を出してきたという大義名分を得てから嬉々としてケンカを買い上げる明確な確信犯がである。こんなやり取りにいちいち神経を尖らせるほど、これは繊細にできていない。口元に薄い笑みを浮かべたそれをティエリアは見返す、漏れそうになるため息を飲み込んだ。

「悪いが俺は、君のように時間が有り余っているわけじゃない」
「・・ハッ、そりゃスンマセンねぇ。合間を縫って俺の相手をしてくれて、どーもありがとうございますゥ」

この阿呆ほど憎たらしい口を利く人間もいないだろう、ティエリアはぐっと奥歯を噛む。ここでこの馬鹿の挑発に乗ってやるわけにはいかない。

「上の空で見た映画の内容を把握できるほど、君が器用な人間だとは思えないが」
―――!」

反射的に反論を探したのだろう、しかしぱかりと開かれたくちびるは何の音を生み出すこともなくふっつりと閉じられる。おおきく息を吸い込んだ上背がふくらみ、けれど漆黒の視線が外れるとともにしゅるしゅるとしぼんだ。まるで栓の抜けた浮き輪だ、部屋への出入り口を封じていた腕が自身の前髪をくしゃりとにぎる。

「今日はもう寝ろ。――・・ルークも心配している」

ぼんやりと突っ立っているの脇を通ってティエリアは自身の荷物を取る。その際、しばらく前から沈黙を守っていた毛布の塊にポン、と軽く手を置いた。靴を履き、ドアノブをつかんだところでティエリアは首だけ振りかえる。ドアのそばに立ち尽くし、彼の名前を呼んだはどこか泣き出しそうに見えた。へらりと気の抜けた笑みを、しかし奇妙に歪んだ笑みを浮かべるくちびるが、ふるりと震える。

「・・・・・・ティエリアも、心配した?」


「おやすみ。」


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writing date  090407   up date  090428
案外仲良しなメガネと猫。