Colorful
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くちびるに押し付けられたそれが一体何なのか、は比喩などではなく本当に理解が及ばなかった。どんな状況にあろうと思考は止めるな、育ての親から拝聴した教訓はの血となり肉となり、彼女の根本を成している。とある雨の日、小生意気な喋る猫を拾ったときもそれが人間の形に化けたときも、となりにテレビから抜け出してきたような美少年が引っ越してきて、いきなりケンカを売りつけられたときだっての思索は止まらない、夜の底のような漆黒を秘めた瞳の奥で思惟をめぐらしていた。
近すぎて焦点が合いにくい視界のなか、月明かりにくるくる踊る紫苑はつややかな光彩を放ち、影の中にあっても白く透けるまぶたはマッチ棒を二、三本支えられそうなほど長い睫毛をたくわえている。完全にOFFに入ってしまった思考はまるで、クラッチを上手くつなげずにエンストを起こしてしまったような状態だ
――とりあえず落ち着いてエンジンをかけなおしたの脳ミソは、オーバーヒートを恐れぬ勢いでアクセルを踏みこむ。現状を把握した瞬間、カッと頭に血がのぼって沸騰するかと思った・・羞恥や困惑ではない、これはひどく純粋な “怒り” だ。
まばたきをひとつした後の漆黒には、強い怒りの炎が閃いている。の纏う空気が一変したことを感じ取ったのか、リジェネの左手を絡め取る指に、後ろ頭に回された手に力がこもった。は文字通り目前にある存在を突き飛ばそうと動く、“押し返す” などという表現では生ぬるい、力の限り突き飛ばした拍子にバランスを崩して横転し、頭を強く打ってしばらく昏倒すればいい。は本気でそう思った、二度と返らぬ人になればいいと思わないあたりが妙に生々しい。
――・・しかし、空いている右手でその肩を突き飛ばそうと力を込めたとき。ふるりと震えたまぶたの隙間、メガネのレンズ越しに覗く深紅にはそれ以上動けなかった。
「
――――・・っ、」
重なるのだ、燃え盛る火焔を封じ込めたような紅玉が、相手の内面を抉るような鋭い紅色の眼差しが。違うとわかっているのに、似ても似つかないと頭では理解しているのに、寸分違わぬ深紅に晒されると胸が詰まる、糸で吊られているかのように指一本動かすことすらままならない。・・のそんな内面を見透かすように、目の前の深紅はふっと笑った
――否、『嗤った』。圧倒的な恥辱に体中の水分という水分が沸き立つ、視界が滲むほどの悔しさに合わせられているくちびるが震え、彼女はその奥でぐっと歯を食いしばった。そうしないと自分自身、何をしでかすか予想がつかなかった。
「・・っ、なんで・・こんなこと・・・!」
互いの吐いた息がまじりあうほど近くにあるその白皙を、は持てるすべての憎悪をこめて睨みつけた。噛み締めた下唇から鉄の味が滲む、ぶるぶると震えるからだをごまかすためのそれは彼女の意に反して、大した効果を示していなかった。その根本にあるのが怒りなのか悔しさなのかそれとも恐怖なのか、今のにはわからない。
「そんなの、決まってるじゃないか」
リジェネが、笑う。無邪気に、玩具を目の前にした子どものような顔で。
「
―――君が、大嫌いだからさ」
再びに顔を近づけたリジェネは、耳に直接声を吹きかけるように言葉を囁いた。おかげで、それまでリジェネの陰に隠れて見えなかったものがの視界に姿を現す。防犯灯のした、吹きぬける春の風に肩口で切り揃えられた紫苑を揺らすそのひとは、疑いようもなく、
ティエリアが思わずそこで足を止めたのはその後姿に、もっと詳しく言えば防犯灯の明かりに映し出されている髪色に見覚えがあったからだった。そうでなければハレルヤをして “堅物” と言わしめる彼が(ハレルヤと比較すれば大抵の人間は 堅物 に分類されうるだろうとティエリアは思っている)、車に寄りかかるようにして重なり合う二つの影を視界に入れるはずがない、普通であれば情報処理に長けたティエリアの脳はそれを “見なかったこと” として処理するはずだった。人工的な白い光に照らされる紫苑、自身と同じ色をしたそれが決してメジャーなものではないことをティエリアは理解している、加えてくるりと弧を描いた髪をもつ人間には心当たりがありすぎた。今ティエリアの前で繰り広げられている吐き気がするような光景に対しても同様である。・・・・・・・奴なら、やりかねん。
ふざけるなと文句のひとつでも言ってやろうかと思ったが、それより彼らの振舞いを視界に入れていることのほうが嫌だった、気持ち悪かったと言い直してもいい。鋭い舌打ちをひとつ残し、常識知らずの親戚には後で抗議文を送りつけるなりしようと決めたティエリアの耳に、予想外の声が届く。
『・・っ、なんで・・こんなこと・・・!』
――それが聞き間違いだとしたら、どれだけよかっただろう。聞き間違いとして処理することができたら、どれほど。けれど頭で理解するより先に体がそれを理解した、まさかそんなはずは、と思ううちに指先が凍り、靴裏に根が生えたように動けなくなる。末端からスゥと体は冷えていくのに、中心が熱い。どくどくと心臓が鼓を打ち、周囲の音すべてが遠ざかっていく。
「・・・・・・・ティエ、リア・・」
リジェネ・レジェッタの陰から現れたそれ
――何か思い切りわかりやすく雰囲気が違うような気がしたが、とにかく何であろうと見慣れたその間抜け面。それが、震えるくちびるでそう自分の名前を紡いだ瞬間、ぷつんと何かがはじけた。
「やあ、随分久しぶりだねティエリア。元気だったかい? 伯父さんはいつも君の事を気にかけているよ、意地を張るのもそろそろ止めにして、家に戻ったらどう?」
「
―――・・をした、」
「ああでも、僕が今日ここに来たのは別に伯父さんの差し金とか、そういうんじゃないから気に病む必要はないからね。・・まぁ、君が気に病むような性格だとも思わないけどさ。どうせティエリアのことだからろくなご飯も食べてないんでしょ? 一年もわがままを通したんだし、もういい加減、」
「に何をしたのかと聞いている!」
きょとんとした顔でリジェネはティエリアを見返す、殊更に瞳をまあるくし、ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら彼はわずかに小首を傾げた。自分とよく似た容姿を持つこの男のそれが、ほんの少しだってわざとらしく、故意に彩られたものであったならティエリアのはらわたはここまで煮えくり返らなかっただろう。秀麗な白皙に怒りをあらわにするティエリアを、リジェネは不思議そうに見返す・・・・心の底から、不思議そうな顔で。
「ティエリアどうしたの? そんな怖い顔して・・それより聞いてよティエリア、このまえリボンズの奴が、」
「答えろ、リジェネ・レジェッタ! に・・っ、それに何をした!」
いつもくちびるに猫のような笑みを浮かべている白皙は、表情を消すとまるで能面のようだった。なまじ元々のつくりが整っているだけ、そこから感情の色が消えると人工的な匂いがする。それはティエリアにも共通して言えることだったが、彼の深紅はその割に多くの色を宿していた。声を荒げるティエリアにリジェネは鼻白んだのか興をそがれたのか、至極面白くなさそうに言葉を吐く。
「・・別に? デートの締めくくりにキスしただけ」
ティエリアが自分のした行動に気付いたのは、固めたこぶしがじんとした痛みと熱を訴えてからだ。
「・・今日一日デートしてみて、のこと好きになっちゃったから。仕方ないじゃない」
「それに、ティエリアが僕を殴る権利なんてどこにもないと思うんだけど」
「・・消えろ、二度とこれに近づくな」
「言っておくけど、男の嫉妬は見苦しいよ? ティエリア。・・・・・・ああそれと、」
リジェネはわざとらしく肩を竦めながら運転席に滑り込む。まるで番犬のように、エンジンが唸り声を上げた。春の夜に言葉を残して、テールランプが曲がり角に消える。
「今は僕なんかに構ってる場合じゃないと思うんだけど・・・いいの?」
ぶくぶく、と
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