Sakata-ke
:3-3
それから四日のときが流れた。世間一般にペットとして飼われている犬は 甘噛み という親愛の情を示すスキルを持ち合わせていると聞いたことがあったのだが、そうだとするとやはり定春は “普通” というくくりに入れられるものではないらしい。0か100しか持ち合わせていない定春の甘噛みは、宿屋でHPを全快したはずの銀時を即座に教会へとぶち込んだ。どうしてだか、こういうときばかり危険を回避する新八と神楽が恨めしい。 「だめヨ、定春! そんなの食べたら天パがうつるネ!」「そうだよ、死んだ魚の目みたいになっちゃうよ!?」 定春の生臭く、湿っぽい息を遠のいていく意識の中で感じながら、銀時は彼ら二人への殺意を新たにする。
そんな粗暴極まりないバカ犬が、たまごを温めることができるのか。エサではない、これは食べられるものではないのだと定春が理解したところで、その巨体が何かの拍子にたまごを押しつぶす可能性は決して少なくないし、ただ温めていればそれで本当にたまごが孵るのか、そもそも本当にこのたまごは生きているのか。この四日の間に頭を過ぎった疑問は数知れず、けれど銀時はそれらを終ぞ口にすることなく日々を過ごした。彼に限った話ではない、同じようなことを考えたであろう新八や神楽も何も言わないまま。
――・・一週間というのは、これで結構長いものである。
あのジジイの言っていた一週間という期限が本当だとすれば、折り返し地点を越えたことになる。さてこのたまごは本当にあと数日で孵るのか、それともやはりあのときケーキにするのが妥当だったのか。 ・・ま、そのうちはっきりすんだろ。 口の中に広がるミントの爽やかな香り、寝ぼけ眼(まなこ)のままシャコシャコ歯を磨いていた銀時は、そんなことを考えても仕方のないことだと、とりあえずそう結論付け・・・・・・、
「っ、銀ちゃん!」
「ぅぐァ・・ッ、」
例えば耳かきをしている最中とか鼻をほじっているときとか、そういうときには決してその人に驚かすとか体を揺するとか、そんな衝撃を与えてはならない。赤いマントを目前にした闘牛よろしく彼の腰にタックルをかますなどもってのほか、いわんや宇宙最強民族のひとつに数えられる夜兎族が、である。口の一番奥にある歯を余裕で通り過ぎ、のどぼとけをこえて喉を貫き、うなじのあたりから歯ブラシがにょっきり生えてくるかと思った。腹の底から酸っぱい感じがこみ上げてくる、確かに酒を呑みすぎて気持ち悪くなってしまったらいっそ吐いてしまったほうが楽になれるが、それにしたってこんな命がけの対処法があってたまるか。
げほっ、がはっ、うぇ・・っ。激しく咳き込む銀時の腰に抱きついたまま、神楽は彼を抱え上げる勢いでぐいぐい引っ張る。抵抗する銀時、しかしどうしてだかちょうど鳩尾のあたりに神楽の小さなこぶしがばっちりぴったりはまり込んで、一度は鎮まりかけた強烈な吐き気が再び火を噴いた。朝っぱらからなんという拷問だ、DVで訴えたら勝てるんじゃないかと思う。
「〜〜〜ンだよ、ったくよォ。眠気どころか意識もってかれるとこだったじゃねーか、何してくれてんだオイ」
まだ朝起きたばかりということもあり、ただでさえ機嫌も血色もいいとは言えない銀時だが、額に青筋を浮かべ頬をヒクヒクと引きつらせた彼の顔色はほとんど髪のように・・あ、いや、間違えた、紙のように真っ白だった。殺意すら込めて思い切りはたきつけてやった頭を抱える神楽はわずかな涙が浮かべている、泣きたいのはこっちだバカヤロー、こちとらさっきうがいしたとき血ィ吐いたんだぞ。そこまで口に出すのはさすがに気が引け、チッという舌打ちですべてを洗い流そうとしたのは銀時だが、元凶たるチャイナ娘になけなしの大人の判断は理解されなかったらしい。むっつりとくちびるを歪めたガキは、銀時の姿を視界に入れることすら拒むようにふいっと顔を背けた。
「・・・・・・・銀ちゃんには教えてあげないネ」
「・・ぁあ?」
透き通るほどに白い頬をもつ横顔を、銀時は年甲斐もなく本気で睨みつける。死んだ魚のような目をスゥと細め、眉間に皺を寄せて低く唸り声を上げた彼はしかし、すぐさま奪われかけた自分のペースを取り戻した。自分のこんな態度で神楽がどうこうできるものだとは思っていないし、下手をすると逆ギレした神楽にフルボッコにされかねないし、なによりあれだ、おおよそ一回りほど歳の違うガキと本気で張り合うのはなんか情けない。銀時は時折、自分の姿を客観視する方法を見失う。
「あっれぇー、何、もしかして神楽ちゃん拗ねた? 俺が話に乗ってこないから拗ねちゃった?」
「・・・・・・・そんなんじゃないネ、勘違いすんじゃねーヨ」
「いやいや、お前それ絶対拗ねてるって。・・ほら、聞いてやっからから話してみ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
ため息をひとつ、膝に手を置いてソファから立ち上がった銀時は、向かい側のソファに酢昆布をくわえて座っている神楽のとなりにドサッと腰を降ろした。わずかに体を引いた神楽に頓着することなく、彼は鮮やかな色の髪に手を伸ばす。
「・・・・神楽ちゃーん? 拗ねてねェで話してみろって、人間素直が一番な 「だから違うっつってんだろ、この天パ」
「・・・・・・・・・・・・・・」
目の前の空気をヒュッと切り裂いていったのは鋼のこぶし、反射的に体を引いた銀時の視界に一瞬逃げ遅れた銀髪がゆらゆらと宙を舞う。おおよそ一回りほど歳の違うガキといえど、神楽は宇宙最強民族のひとつに挙げられる夜兎族である。・・・ちょ、神楽ちゃん?いつものアルアル口調はどこいっちゃったの? そんな軽口すら縫いとめる鋭い視線に、銀時はくちびるの片側だけを無理やり吊り上げて実に奇妙な笑みを見せた、俺はまだ自分の命が惜しい。
「・・・・・何やってんですか、あんたら」
そんな彼を救ったのは新八だった、まったくいつの間に出勤してきたのだろう、だから地味だとかメガネだとか新八だとか言われるのだ、ざまぁみろ新八・・・・・この先できるだけダメとか言わないようにするからお願いします助けてください。道端に落ちているゴミを見るかのような目つきが気に入らないのは確かだが、苛立ちでも怒りでもなく、まるで能面のような無表情にただ殺意のみを浮かべていた神楽がパッと表情をほころばせて新八に駆け寄ったことで銀時は間一髪のところを救われた。風前の灯と化していた命の炎に薪をくべながら、こっそりガキ共の様子を窺う。
「新八! これ持ってみるヨロシ」
「・・え? うわッ!」
まるでスーパーの買い物袋を預けるような気軽さで、ひょいっと手渡されたものに新八は目を剥いた、てのひらに馴染むほのかな温かさと重さは数日前から定春があたためているたまご。・・妙にキラキラした目でこちらを見上げてくる神楽の視線を感じながら、新八は小さく首をひねる。定春に温めさせるという決定が下ってからは、何かにつけてこぶしの飛び交う万事屋で何かの拍子にたまごを割ってもいけないし、様子を見るばかりであまり触れずにいたのだが、以前と比べて格段の変化があったようには見えない。神楽と銀時の食欲から身を挺して守ったとき、胸に抱えたのと大きさも重さも変わったようには思えなかった。
「・・・音聞いてみろって言ってるアル!」
「いだだだッ、痛いよ神楽ちゃん! 耳とたまごが一体化する、耳からたまご生まれたみたいになる!」
「はいはいはいはい、何してんですかーお前ら。ンなことしたら割れちまうっつーの」
新八の頭にたまごをぐりぐり押し付けるようにしていた神楽の魔の手からそれをひょいと取り上げ、銀時は彼女の背丈では届かない高さにたまごを掲げた。咄嗟に腕を伸ばす神楽から遠ざけるように片腕を持ち上げて、空いている手で小さな頭を軽く押さえる。
「・・んで? こいつがどーかしたのか?」
「・・・・・・・・・・・・・」
「かァぐらー? 何、お前まだ拗ねてんの?」
「・・・・・音が聞こえるネ」
音? 言葉を繰り返しながら、そういえば前にも神楽がそんなことを言っていたのを思い出す。あれからというもの、どうにも卵を食べるのに以前にはなかったためらいを感じる銀時をよそに、神楽の飯は相も変わらず三食卵かけごはんだ、まったく女という生きものの神経の図太さには頭が下がる。こっちは三食たくわんで乗り切っているというのに、俺だって卵かけごはん食べたいのに。
「音が聞こえるって・・前にも同じよーなこと言ってなかったかァ?」
促されるまま、たまごに耳を押し当てて目を閉じる
―――・・まぶたの裏にあるやわらかな暗闇が、とくん・・、と小さく鼓を打った。優しくゆるやかで、まるで子守唄のように紡がれるあたたかな音。注意しなければ聞き逃してしまいそうなほどかすかなその音はしかし、銀時の鼓膜を柔らかく震わせ、爪の先から髪の一本一本に至るからだの隅々に、吸い込まれるように溶けていく。
――・・ああ、確かにこれは 生きている のだと、生まれようとする魂の叫びなのだと。ドクン、とすべての聴覚を占領する勢いで自分の心臓が打ち鳴らされ、全身の細胞に熱が送り出されていく、息が詰まるほどの感動を伴って。
「・・・・・・オイオイ、なんかスゲーなこれ」
「だから言ったアル」
え、なになに?僕にも教えてくださいよ! 喚く新八を蹴り飛ばし、銀時はもう一度たまごに耳を押し当てる。生きようとする命の鼓動は何者にも侵しがたく、脆弱でありながら堅固たる響きを奏でるそれ・・・・・・予定までは、あと三日。
novel / next