Coupling Parody

:master and butler



決して裕福なわけではない、特に恵まれた生活を送っているわけではなかったが、それでもはしあわせだった。自分たちで育てた野菜で作った動物性タンパクに欠けるスープでも、今年で10歳になった弟がぺろりと平らげてくれたらそれでもう十分だったし、少し身じろぎしただけでぎしりと軋んだ音を立てる小さなベッドでも、弟とふたりで身を寄せ合って眠れば気になんてならなかった。両親のいない自分たちにと、あまりの布で村の女の人たちが作ってくれた粗末な服に身を包み、同年代の友達と一緒に羊を追い回す生活には不満を抱いたことなどなかった。これまでと同じように、これからもここで弟と二人、慎ましやかな日々を送るのだろうとそう思っていた。

――・・さま、起床の時刻です。起きてください」

体をふうわりと包み込むあたたかな羽毛布団、染みひとつ無い真っ白なシーツに、やわらかくも心地よい弾力で頭を支えるパールグレイの枕。素肌をサラサラとなでるのは象牙色をした絹のすべやかさで、そこには苦痛の欠片などどこにも見つけられないが、の気分は最悪だった。薄く開けた視界には、ゆるゆると波打つビロードで飾られた豪奢な天蓋が映る。ひたひたと音もなくにじり寄り、忍び寄ってくる空虚な感情、ここに来て初めて存在を知ったそれらとはもはや顔なじみだった。またか、と思う間には空虚に飲み込まれる。ぼんやりと霞んだ薄絹の向こう、クイーンサイズのベッドの隣に佇む紫苑の影。絶対的なまでの絶望は彼女がこの屋敷に連れてこられたその日から、毎日飲まされ続けている苦汁だった。


多くの人々で行き交う都会の中心部から、少し離れたところにあるシュヘンベルグ邸――現当主 イオリア・シュヘンベルグがマスターを務める、豪勢な造りの屋敷と広大な敷地を所有するその邸宅にと刹那の姉弟がつれてこられたのはつい一ヶ月前のことだ。幼い刹那を残して逝ってしまった父親の友人だと名乗ったそのひとに、養子として迎えたいと告げられた瞬間から、自分たち二人に与えられる選択肢はゼロになった・・・・・目の前に立ちはだかる重々しい石造りの屋敷、それをじいっと睨むように見上げる刹那のちいさなてのひらを握り、噛み締めた絶望の味をはきっと忘れないだろう。そして遠くに聞いた、戦いの火蓋が落とされた音も。

「おはようございます、お嬢さま」

無感情な言葉の羅列、やわらかな薄絹の向こうで閃く鋭い深紅に対し、はこれ見よがしなため息をついた。ぴく、と自分付きの執事の眉がひそめられ、空気が剣呑を帯びたことに彼女は内心ほくそ笑む。身の回りの世話をする執事兼教育係として、この屋敷にやってきて一番初めに与えられたのがティエリア・アーデという女と見紛うほどに美しい容姿をした執事だった。年のころは16、と同い年だからという理由で与えられた彼を最初、同性だと勘違いしたとティエリアの仲はお世辞にも良好ではない。名家の長女たるにふさわしい教育を施そうにも、お転婆とかじゃじゃ馬とか、そういう言葉で括れるほど “おしとやかな” 性格ではない彼女に対し、ティエリアは執事という立場を忘れて苛立ちを隠そうとせず、一方のはそんなティエリアの反応を見て楽しんでいる。――屋敷にやってきて一ヶ月、彼らの仲に改善の兆しは見えていない。

「・・っふわぁああ、はよ」
「・・・・・朝の挨拶は “おはよう” であるとお教えしたはずですが」
「ぐっもーにん、ティエリア!」
「・・・・・・・・・・・・・・もういいです。本日の予定ですが、」

あっ、こら待て刹那! 重厚な扉の向こう側から漏れ聞こえてきた同僚の声にティエリアは柳眉を寄せ、ビロードの内側でそれまでぬくぬくとシーツに包まっていたはパッと上半身を起こす。とたたたと軽い足音が近づくにつれの機嫌は上昇線を辿り、対するティエリアの機嫌は反比例するように暴落していく。二つの相反する折れ線グラフの片方が最高値を、片方が最低値を記録したとき、蹴破るいきおいで開け放たれた扉から飛び込んできたのは、中途半端に外したボタンのせいで右肩を肌蹴させている刹那だった。

「待て!」

弾丸のように飛び出した刹那の首根っこを捕まえようとしたティエリアの手は宙をかき(まだ10歳でかつ養子といえど刹那は仕えるべきシュヘンベルグ家の長男だが、とりあえず今現在のティエリアの主はイオリアとであるというのが彼の認識だ、たとえ後者がどれだけ不本意であろうとも)、間一髪でティエリアの腕を逃れた刹那は姉の姿を覆い隠す邪魔なだけの薄絹を乱暴に払う。

「・・っおい、刹那待てって言って 「ロックオン・ストラトス!」・・うおっすまん!」

刹那の執事として彼を追いかけてきたロックオンは、部屋に足を踏み入れた瞬間体を反転させた。つい一ヶ月前まではみずぼらしい衣服に身を包み、たった一人の弟との生活のために男も女もなく羊を追いかけ、山羊の乳を搾り、畑を耕して日々の生計を立てていただが、これで一応花も恥らう16歳の乙女である。最高級のシルクで作られている彼女の夜着は、襟ぐりが大きく開いたワンピースタイプだ――ティエリアは呆れと怒りと情けなさと、この女一度本気でぶん殴ってやらないとだめなんじゃないかという複雑な思いで顔の半分を手で覆い、ロックオンは細かな装飾の施された扉を目の前にして、困ったように頭をかいた。

「あー・・・一応言っておきますが、俺は見てませんよ」
「え、なにがですか?」

ベッドの上からきょとんと首をかしげてそう言い放ったシュヘンベルグ家の長女は、彼女付きの執事が怒りの度合いを強めたことに気付かなかった。

「・・・、」
「おはよう刹那、昨日はよく眠れた?」
「(・・・・こっくり)」
「うん、ならよかった」

この姉弟に共通する夜のような漆黒の髪、ここに来てからの一ヶ月で入念に手入れされた姉の指先が寝癖の付いた刹那の髪をやわやわと梳く。冬が近づくとひどいあかぎれやささくれに悩まされ、傍目にも痛々しかった姉の手はあの頃の傷が嘘のように、爪の先までとても綺麗になっている――が痛いのはいやだ、けれど手の届かない遠くに行ってしまったような気がするのはもっといやだ。刹那は目の前のたったひとりにしか分からない程度に表情をゆがめ、やわらかな腰にぎゅうっと抱きつく。じゅうでーん!という10歳の刹那にはよく分からない言葉が聞こえたが、同じくらいの力で抱き返してくれる大きな存在に対して質問をする意味がないことを彼は知っていた、このあたたかさは今も昔も変わらない。

――・・姉弟でのご歓談中申し訳ありませんが、」

ふわ、と優しげにそのエメラルドを細めるロックオンに対し、鋭く眇められたティエリアの深紅はにこりともしなかった、“申し訳ない” 気配などどこにもない。仕えている主を見遣る目つきではないが、対する姉弟は冷え冷えとした深紅に晒されようと眉毛一本動かさなかった。ベッドの上に抱き上げた刹那の肩越しにとティエリアの視線が交わり、部屋の温度を1,2度下げる。

「そろそろ、着替えていただけますか」

そうして、第一ラウンドのゴングが鳴り響く。

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