Special story

:1-3



久しぶりに昼間歩くかぶき町はわいわいとした活気に満ちていた。この町が本当の姿を現すのは夜、日が沈んでからだが、昼間も捨てたものではないとは思う。手のひらの上からすら飛べなくなった銀時を肩にのせ、彼女は所狭しと軒を連ねた店をゆっくり見てまわっていた。病院勤めの医者となれば夜中に詰めていることだって珍しくないし、あまり数の多くない妖精専門の医師であるは一週間以上自宅に帰れないことだってザラだ。今日は午後から休みをもらえたが、電話がかかってくれば病院に戻らなければならない。こうやってのんびりできる時間は貴重だ。

「・・・ったくよォ、冗談だろーが、じょーだん。なんであんなん本気にするかねェ、なんで冗談とそうじゃないもんの区別もつかないかねェ俺のさんは。ほんとさーもう勘弁してくれよマジで、三十分のあいだに何が楽しくて二度も飛べなくならなきゃいけねーんだよ、飛べると思って飛び降りたらあのザマだよ、あれじゃただの飛び降り自殺じゃねーか」

イチチ、と恨めしそうにもそもそ呟く銀時は器用にバランスを取りながら片手で腰をさすっている。先刻、「・・あれ、何、もしかして怒った?」 とニヤニヤ笑いながら顔を覗き込もうとしての肩口から気軽な一歩を踏み出した銀時は、その瞬間再び重力に捕まってマンガのように病院の廊下に激突した。ひでぶ、という小さな悲鳴がリノリウムの廊下にこだましたのを背中に聞きつつ、はよほどそのまま帰ってしまおうと思ったのだが、銀時の悲鳴に振り向いた人々の手前そうするわけにもいかず。これでも一応、妖精科の医師なのだ。

「しかもこれ、まだ飛べねェし・・・・・・・何、お前まだ怒ってんの?」
「・・・別に、怒ってなんていません」
「嘘つけ、それが怒ってるっつーんだよ。京の女でもないくせにネチネチしやがって・・・・はいはい、スンマセンでしたァー、俺が悪ぅございましたァー」

それで本当に謝っているつもりかと言おうとして、ということはやはり自分は少なからず怒っているのだと自覚したは、飲み込んだ言葉をため息に変えて吐き出した。二十数年を共に過ごしてきて、今なお昔と同じように呆れさせる面を臆面もなく披露する銀時には辟易しているが、諦めることなくいちいち呆れる自分自身にも彼女は十分辟易している。・・いい加減、全てを諦めれば楽になれるとわかっているのに。

―――・・おい、久しぶりに裏の和菓子屋のぞいてこーぜ」

表通りから少し奥にはいったところ、ひとけの少ない道沿いにその萩野という和菓子屋はある。天人にもウケる見た目にも派手で砂糖と添加物の塊をかじっているような菓子が多く出回るなか、老舗の和菓子屋はひっそりと代々伝わる素朴な味を守っていた。何をするにも糖分の欠かせない銀時はもちろん、もその店の上品な甘さは好んでいるのだが、老舗という言葉の響きが持つイメージ通り、商品はそう易々と手を伸ばせるような価格ではない。それでも時にその味が恋しくなって銀時におつかいを頼んだりもするのだが、そういえば最近はとんとあの味から遠ざかっていた。

「・・じゃあ、お願いします」
「おーよ」

暖簾が上がっていることを確認すると、は銀時を店の畳にあずけた。これまで数々の甘味を平らげてきただけのことはある、基本的に銀時は甘ければなんでもいいと豪語する安上がりな味覚の持ち主だが、舌はバカではなかった。さほど甘味を好まないはしかし、彼が美味しいと言い、お前も食ってみろと勧められた甘味のうちで舌に合わないものに出会ったことがない。

店主と銀時があれでもないこれでもないと交渉しているあいだ、は店の外に立ってぼんやりと空を見上げた。家々の屋根がひしめき合っている空は四角く切り取られ、差し込んでくる日の光が薄暗い裏道を申し訳程度に照らしている。人の気配の少なさには知らずほっとした、彼女は明るく賑やかなこの町を決して嫌ってなどいないが、時折いろんなものが面倒になることがある。・・そういえば、銀時とふたりだけで町を歩くのは久しぶりだ、最近は当直が続いていたり、そうじゃなくても帰りが深夜だったりでとても忙しかった。――・・ああ、これだから妖精なんて嫌なのだ。

「オネーサン、ひとり?」

いきなり思考に割り込んできた声にはふと顔を上げる、自分に向かって投げかけられた言葉だとは微塵も思わなかったが、あたりが妙に静まり返っていたせいで聞こえてきた音に思わず反応してしまった。そしてそれが大きな間違いだったということには0コンマ1秒もかからず思い至るのだが、そんな考えを表情に出すほど彼女は子どもではない。にやにやと下卑た笑みを浮かべながらまわりを囲むように距離を狭めてくる三人のバカ者・・あ、間違えた、若者に、そっとため息をかみ殺す。

「・・私になにか用かしら、」
「いやまァ、用事っていやぁ用事なんだけどさァ」

年代のせいにするつもりはないが、今時の若い人というのはみんなこういうものなのかしらとは憂鬱な気持ちになる。・・いや、銀時はもとより自分なんかよりもずっとしっかりした年下の子を思い浮かべて、そんな考えは捨てることにした。あとに残るはそんな考えに至るようになった自分の年齢のことである、まったく憂鬱極まりない。

「ちょっとオネーサン、俺らの話聞いてる?」
「・・・・・ええ、まぁ」

伏し目がちに、物憂げな表情でそっと微笑む、私だって伊達に二十数年を生きてきたわけではないのだ。

「っつーわけだから、オネーサンもどう? 俺らと一緒に」
「・・・・・・・折角だけれど、連れが・・」
「こんなとこで待ち合わせしてんの? オネーサン」

どうやら相手の知能を1ミリばかし計り間違えていたようだ、クツクツと喉の奥から不快な笑い声をしのばせる彼らに、さしものも表情を歪める。確かに彼らのいうとおり、こんな裏通りで待ち合わせをする人間などいない。

「どーせひとりなんだろ? だったらいーじゃん、俺らと一緒にイイコトしよーぜ」

困ったわね、と内心独りごつ。じわじわ距離を狭めてくる彼らから間隔を取ろうと少しずつ足を動かしていたまではいいが、気がついたら細いわき道に身を滑り込ませていた。チラッと確認しただけだがきっと袋小路にでもなっているのだろう、明らかに誘い込まれてしまったらしい。下らないことを考えていたせいだと、はほぞを噛む。

「な? 遊ぼーぜ、オネーサン」

ヌッと伸びてきたみずぼらしい腕が、の手首に触れようとしたとき。


――はァい、そこまでェ。・・オニーサンたち、俺のゴシュジンサマになんか用?」


地を這うような低い声、の目線を遮るように、横から気配もなく割り込んできたのは見慣れた腕だ。軟弱なバカ者・・あ、間違えた、若者のそれなどとは比べ物にならない、鍛えこまれた侍の。たいして広くもない路地での前に左腕をつき、そうして彼女の傍らに立った彼は死んだ魚のような目をそのままに首だけでついと振り返る。

「・・つーかお前、こんな暗がりにイタイケな青少年連れ込んで、ナニするつもりだったわけ?」

あたま一つ分ほど高い位置にある瞳を見上げて、は答える。

「さぁ・・・イイコトなんじゃない?」

ふーん、なるほどねェ。・・まるで獣の唸り声のようだとは思う、普段ぼやぼやとしているばかりの瞳がゆらりと静かに色めき立つのを彼女は見逃さなかった。飄々として感情を読ませない表情はそれこそいつもと変わらない、どこか気の抜けた赤銅色の瞳があるに過ぎないけれど。周囲の空気を飲み込む剣呑が、貪欲にその支配領域を広げていく。

「おいおい、随分楽しそーなこと考えてんじゃねェの。銀さんも混ぜてくれよ、そのイイコトとやらに・・・よォッ!」

ブーツのかかとが一人の若者の腹に捻じ込まれるのと、その彼が弾かれるように吹っ飛んだのはほとんど同時だった。ズシャアアア、と砂埃を上げながら地面を滑った彼は腹を抱えこむように丸くなり、激しく咳き込みながら苦悶の呻きを漏らしている。突然の乱入者に呆気に取られていた二人のうち、時を置かずしてもう一人のあごを突き上げる掌底で砕いた銀時は、最後の一人を前にへらへら笑う。

「・・どうするよ、3Pの準備ならできたけど?」
「ふ・・っ、ふざけんなァアアア!」

若者の手が銀時の右手首をつかんだ。かたく握った、それでも軟弱極まりないこぶしを大きく振りかぶって銀時に殴りかかろうとした彼はしかし、ヒュッとか細く喉を鳴らすのを最後に動きを止める。相手の利き腕と思しき右手は封じてあるし、ここで力の限り殴りかかればダウンは取れなくとも逃げる隙くらいは生まれるはずだ――そう、わかっているのに体が動かない。神経同士がうまくつながらない、気道が潰れたように呼吸すらままならず、全身の筋肉がキシキシと悲鳴をあげる。・・動け動け動け動けッ、なんでもいい、なんでもいいから、・・ッここで喰われてたまるかよ!

「・・・・・銀時、もうその辺で・・」

男の影からスッと姿を覗かせた女を目が捕らえた瞬間、本能的に動いていた。所詮この世は弱肉強食、彼らがどんな関係で一体何をしているのかということに対する懸念は、若者の意識には既にない。腹をすかせた狼に追い詰められたみずぼらしい野良猫が、ケージの中でカラカラ滑車を回してばかりの間抜けなハムスターを目の前に襲い掛からないというほうが無理なのだ。力はいつだって上から下への一方通行、暴力の矛先だって変わらない。

男の体を脇へ追いやり、若者は頭上に掲げたこぶしに力を入れなおす。・・女だろうと知ったことか! ――不思議だったのは、決して頭の悪そうには見えないこの女が、しかしその涼しげな表情を一瞬だって変えなかったことだ。暴力の矛先が自分に向いたことに気付かなかったはずがない、けれどその星のない夜空のように黒々とした瞳はわずかだって揺らがなかった・・・いや、ほんの一瞬、女は感情の片鱗をのぞかせる。“同情” という名のつくそれを。

――・・いやだからさ、なんか用ですかって聞いてんだろ?」

振り上げたこぶしが、頭の上でギチギチと軋む。

「まず俺に話通してもらわないと困るんスよォ・・・・・・おめーらみてぇなクソヤローがいるからな」

ゴキリ。薄暗い路地に響いたその音には顔をしかめた、人の関節が外れる音など気持ちのいいものではない。普通折れ曲がるはずのない方へ向かってぐにゃりと力なく垂れている手首を押さえ、声にならない絶叫を轟かせている男を見下ろしたはやがてゆるゆるとため息を吐き出す。彼にとどめを刺したのはおそらく自分の言動が引き金だが、手を下したのは私ではない。

「やりすぎです、銀時。何もここまでしなくても・・」
「へーへー、俺が悪ぅございましたァー。・・つーかお前、それよか先に言うべきことがあんじゃねーの?」
「・・・・慰謝料のご請求には応じられませんので、ご留意くださいね」
「・・・・・・うん、いや、大事なことだけどさ。なんかものっそい外道に見えるよ、さん」

「好き好んで悪役を買って出る誰かさんに比べれば、外道には違いないでしょう」

筋や腱を無駄に痛めることなく、ああも綺麗に関節を外せる誰かさんに比べれば、おびえる彼を宥めすかしながら関節をはめなおす自分などとっくに道を踏み外している。立つ鳥跡を濁さず、後腐れなどまっぴらごめん。彼らには悪いが、今ある日常を彼らごときに大人しく壊されてやる甲斐性などは持ち合わせていない、自分たちを縛るのは悪夢だけで十分だ。

銀時の能力は、人間と同じサイズになることができる力だ。総じて妖精は、パートナーである人間が十歳くらいになるとそれぞれ妖精本人やパートナーの才覚に応じた特殊な力を得るようになる。銀時が初めてその力を披露したのは、が八歳の頃だった――・・周りの子どもたちより随分早い能力の開花と、その登場の仕方に度肝を抜かれたのをまだ鮮明に覚えている。朝起きたら、二、三歳年上のようだがそのくせもじゃもじゃの白髪を持った少年が一緒の布団に潜り込んでいたのだ、あれほど大声を上げた経験も多くない。

「・・・ったくよォ、なんでそうお前はホイホイ余計なもんひっつけんだよ、これからゴキブリホイホイって呼ぶぞコルァ」

蜘蛛の子を散らすように路地裏に消えていく背中を見送り、傍らに立つ銀時が一番に言ったのはそれだった。斜め上に見上げた彼はいつにも増して死んだ魚のような目をしている。いつもと同じように冗談めかしてもそもそ呟かれた言葉、けれどその中から彼の不機嫌を掬い上げられないほどは遠く離れた場所にいない。

「・・ごめんなさい」
「あのねェさん、いっつも同じこと言うようだけれども。謝ってすむなら警察なんて要らないわけですよ、・・いやあんなチンピラ警察ほんと要らねーけど、」

はぁっ、と大袈裟すぎるほどのため息を吐き出した銀時は、唸るように言葉を紡ぐ。

「・・・・・・・で? 怪我とかあんの、」
「・・いえ、だいじょう 「ハイ、また嘘ついたァ」

体ごとこちらを向いた銀時が右の腕を掴み、肘の辺りまで着物の袖をぐいと引き上げる――手首の辺り、の白い肌にぼんやりと浮かび上がる赤い痣、赤銅色の瞳がスゥと細められる。

「なァんでお前はこーゆー嘘つくかねェ・・・・・なに、もしかしてアイツら、ほんとにお前が連れ込んだわけ?」
「・・・・バカだバカだとは思っていたけれど、ここまでバカだと呆れてバカとも言えない・・」
「いや言ってるから、思う存分バカバカ言ってるから。・・ンだよ、文句でもあんの、か・・・・」

の右手を捕まえているのは銀時の右腕。彼女は自由になっている左手をツ、と持ち上げると銀時の右腕に添え、白い着物をそっとたくし上げた。その腕に見えたのはくっきりと黒ずんだ痣である、ひ弱だ軟弱だと思った割に、若さがもつエネルギーとはなるほど恐ろしい。

「これは、あなたの傷ですよ―――・・銀さん、」

に背中を見せるように。肩口に腰掛け、おォ、とかなんとか小さな口の中でごにょごにょ言っている妖精に、も口の中で言葉を返す。――・・ああ、まったく。これだから妖精なんて、


時綻ぶ


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時綻ぶ ... 7-1 / 古語50題
writing date  09.03.10    up date  09.03.28
アレハレとかぶりましたが大目に見てください。