目の前に広げられた、美しい色の菓子。口に含むとほっこりとほどけるその優しい甘さに顔を綻ばせながら、けれどの思考を占めるのはまったく別のことである。今いる茶屋の、大通りを挟んだ向かい側にある薬種問屋。そこから漂ってくるこう・・・両肩に広辞苑を各2冊ずつのせているかのような、両手両足に子供を引っ付けて歩いているような、重さ。全身を包む、如何ともしがたい倦怠感はいくらなんでもヒドイ。ぐったりと表情を歪めるの前で、薬売りはさも今気が付いたと言いたげに、すぅと菓子を指差した。

「・・・さん、食べないんですかぃ?」
「食べる。せっかくおごってもらったし、食べるよ。・・食べる、けど」

こうして今、15分前に出会った男と茶屋にいるのは決して、自分が誘いを持ち出したからではない。こんないかにも厄介そうな輩に関わっていたら、きっとロクな目に遭うまい。すたこらとその場を去ろうとしていたを引き止めたのは薬売りで、「お詫びと言っちゃあなんですが、ちょっと俺に付き合いませんか。なぁに、茶の一杯ぐらい、奢らせてもらいますよ」という一言が、今ここにいる決め手となった。

「“けど”―――どうしました?」

だが、この「薬売り」に強い興味を引かれている自分を、なによりが認めないわけにはいかなかった。自身の中に在る“力”が引かれているのか、それとも自身が引かれているのか、もしくはその両方なのか・・・いまいち判然としない。こんなことは初めてだ。分かるのはただ、そんな事態を引き起こしているのがこの薬売りであることだけ。

「・・・あの店、嫌だ」
「・・・・・ほう」

何か面白いものを見つけたように、すぅと薬売りの目が細められ、口元が笑んだ気がした。

「嫌だ―――とは?」
「気持ちが悪い。なにか居る」
「なにか―――とは?」
「俺が知るかよ! ・・何かが居て、ただ何かしようとしてることは・・・・わかる」
「・・・それは、それは」

まるで揶揄するような口調。それが酷くの気に障るが、だが彼女は分かっている。この男もまた、それを感じているのだと。

「わざとここに連れてきたくせに、白々しい」
「おや、ばれていましたか」

一挙手一投足の全てが胡散臭いと言ったなら、この男はどんな顔をするのだろう。底意地の悪い思いが首をもたげるが、別にどうと言うこともなく謝罪の意など皆無な言葉を口にする姿が脳裏に浮かび、己の想像に腹立たしくなる。「では行くとしましょうか・・・、ね」と振り返ったこの薬売りに「どうして俺が」と言いたいのは山々だが、それは見当違いなのだと頭ではなく体が理解していた。自分はこれからあの“嫌な”場所へ向かわなければならないのだと、理性を飛び越えて把握していた。そこで何が出来るのか、どうするべきなのか。それら全ては、行ってみて初めて、対峙してみて初めて分かるものなのだと、知っていた。「どうして」と問わねばならぬとしたらそれは―――己に対して、である。


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薬売りとが通されたのは、奥座敷だった。虚ろに、感情を忘れたような奉公人に案内され、その後を足音一つ立てず歩いていく薬売りについてきたが、はっきり言って今はその判断を絶賛後悔中だ。体が重い、果てしなく重い。わかりやすく言うなら、両脇にころころと太った赤ん坊をそれぞれ二人は抱え上げ、背中に米俵を背負い、かかとに鋼鉄の入ったシークレットブーツを履いているかのような・・・・だからつまり、何を言いたいのかというと、

「随分と、顔色がよろしくない、ですね」
「うわッ!?」

鼻先10cmに迫った薬売りの顔に、は今度こそ後ろにひっくり返った。どたん!と派手な音を立て、したたかに腰を打ちつけて涙が滲む。いってぇ・・、と呻く彼女に注がれる視線はどことなく、哀れみを含んでいるような気がした。

「お前の顔は心臓に悪い!」
「・・・・失礼なことを仰いますね」
「だってその通りなんだから仕方ないだろ。くっそう、青あざになってんぜこれ絶対」
「ああ、まだ消えていないんですか。遅いんです、ね」
蒙古班はとっくの昔に消えました!

す、と目の前に差し出された薬売りの手。ああ、これは起き上がるのを手伝おうとしてくれている手なのか、と思わずまじまじと観察してしまう。女の人みたいに綺麗な手・・・誘われるように手から腕を渡る視線は、その先で不思議そうな――正しく言えば、それこそ奇怪なものを見るような、薬売りと出会う。

さすがに気恥ずかしくなり、顔を背けて薬売りの手を握る。ふわりと体が軽くなったような感覚と共に冷たい床の感触がお尻の下から消えた。「ありがとう」「いえ」その言葉が交わされると同時に彼の手が離れ、に残されたのは。

「(・・・体が、軽い)」

これまでの反動だろうか、自分の体が酷く軽い。両脇に抱えた赤ん坊と背負った米俵と、下半身ダイエット・・・・いやいや、シークレットブーツと交代に手に入れたのは、普通という名の天使の羽である。それが誰によってもたらされたかなんて、考えるだけ時間の無駄だ。この男がしらばっくれる気なら、こっちだって感謝の言葉なんてかけてやるものか。後になって「お礼がまだです」なんて言われたところで、貰ってもいないものを返すことなんかできないのだと、つき返すことを心に決める。「どう、しました?」と廊下の先で問うてくる薬売りに、しかしはへらりと笑う。


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