「・・・と、これがどこぞの海で獲れたという人魚の尾ひれ、そしてこれが―――ああ、すみませんがさん、一番下の引き出しにはいっている、干物を取ってはくれませんかね・・・?」
「ん」
「すみませんね・・これが、滋養強壮から精力剤にまで効果があるといわれる、ヤモリの干物、です」

「これが、若い娘さんからおばあちゃんにまで幅広い人気を誇る、苺のショートケーキ、です」と同じようなニュアンスでイモリの丸干を掴まされてしまったは、何とも知らず鷲掴みにしてしまったそれをなるべく見ないようにして・・・本当を言うなら今すぐ手を洗いたくてたまらなかったが、どうにも許されそうにない現状に心の中で涙した。薬売り、という言葉の通り、薬包紙に包まれた粉薬から何かの植物と思しき乾燥物を筆頭に、正直得体の知れたもんじゃないブツを畳み一面に広げた薬売りは、この薬種問屋の店主を相手に商談の真っ最中である。「こんなもの、一体どこでどうやって手に入れるんだ」と聞いてみたいような聞きたくないようなものばかりが並べられているのは、そういうわけもあるのだろうと思う。おかげで、この大店を支えるにはいささか若すぎる気がする店主は、薬売りの出す品々に興味津々だ。

「ええとお次は・・・さん、上から2段目の「んー、これ? 本しか入ってな」

本を広げ、閉じ、ゆっくりとまるで歯車が回るかのような愚鈍さで、は薬売りに顔を向けた。

「・・・・これ、は・・・・ナニ?」
「春画、ですね」
「・・へぇ、そぉか・・なるほどね」

春画―――知らなくても、親にそれが何なのか、決して聞いてはならない。

「言っておきますが、これもまた商品、ですよ?」
「・・・・・なぁ薬売り。お前今のこれ、ワザとだろ」

ひとつ。ゆっくりと瞬きをした薬売りが「まさか」と口を開きかけたとき。

ずぅん、とそれこそ今この瞬間まで消えていた重さがの身に圧し掛かる。予想していなかったその息苦しいまでの重圧に、耐え切れず両手を突く。肺の奥から空気が締め出される感覚に、奥歯を噛み締めた。ああもう、なんて気持ちの悪い! 周囲の空気がまるで全部、自分に反旗を翻したような。どろりと濁った空気が全身に纏わりつく気がして、吐き気がする。周囲のものを全て、彼方へ吹き飛ばしてやりたい――

「いけない」

突如入り込んできた声が、肩に触れている手が、思考を取り戻させた。は、と見下ろした己の手が、懐にしまいこんだはずの宝珠を握っていることと、それが淡い光を帯びていることに気付いて血の気が引いた。今、自分は一体なにを。

「取り込まれてはいけない、自分を」

カタリ、という木箱が開く音が耳に届くのと同時に、己の内の「力」が歓喜に打ち震えるのを感じながら、は一言だけ絞り出す。

「何、に」
「モノノ怪に」

静かに告げた薬売りの手には、一振りのつるぎが握られていた。


+ + + + +    + + + + +


「こ、これから何が始まると言うのだ」

薬売りの言うままに集められたのは、先程まで話していた店主とそしてその妻、他に店主の弟と、病に臥せりがちだという彼らの母の4人。この場の主導権を握る薬売りに明らかな不審と嫌悪すら滲ませていながら、それでも比較的大人しいのはそれぞれがどこかで・・・理性ではないものが司るその場所で、“何か”を感じ取っているからかもしれない。

「いえね・・・出るんですよ、モノノ怪が」
「!」

何を世迷いごとを、と高らかに叫んだ店主を軽く無視し、薬売りは薬箱の下から二段目の引き出しを開ける。と、そこから飛び出してきたのは、

「・・・天秤?」
「ええ、まぁ」
「これで、なにすんの?」
「測るんですよ、モノノ怪との距離を」

天秤で?、と尋ねる言葉はの口から出てこない。ざわり、と全身の肌があわ立ち、背筋が凍る。圧倒的なまでの違和感が、絶対的なまでの威圧感が、まるで人波のように逆らいきれない力でもって押し寄せてくる。なんなんだ、一体これから何がある。わからない、薬売りの言葉の意味も、部屋を取り巻く現実と薄皮一枚で遮断されたような空気も、自分の体を蝕むものも。わからないわからないわからない!

「大丈夫ですか」
「・・・・来る」
「何が――ですか」
「・・っ、来る!」

りん と一つ鈴の音が場の空気を支配する。何をのせたわけでもないのに片方に傾いた一つの天秤。鋭さを帯びた薬売りの目がぎょろりと動く。体をそちらへ向けると同時に、両手の指先だけを組み合わせて何事かを呟いた彼の掌から、無数の札が飛び出した! 襖にぺたりと張り付いたそれらはじわりと墨の文字を浮かび上がらせ、次の瞬間、墨で描かれた目は朱色に染まって開眼する。それはまるで水面に落とした波紋のようにあたりに蔓延し、襖はほとんど朱に彩られる。

「・・・さん、下がりなさ「っ、来た!」

「下がれぇえ!」と叫んだ薬売りの声が酷く遠い。がばりと破られた結界から、ただひたすらに黒い何かが飛び出してくる。体が、心が、思考が重い。自分の周囲を取り囲む空気の不快指数は最高値だ。今自分が対峙している蠢く黒いものが何なのか、どうしてこんなに自分の体が重いのか、どうすればいいのかわからない。ただわかるのは―――出来ることと、しなければならないことである。



―――・・・翔けろ、雀鴻じゃっこう!」



力の解放。手にした宝珠から白い光があふれ出し、それはの体を淡く彩る。その光が収束した先にあるのは左手の甲に刻まれた何らかの紋様。烙印のようなそれが示すのは、彼女の中に封じられた力の存在。締め切ったはずの室内で巻き起こる一陣の風がすぅと消えると、そこに現れていたのは猛禽の類よりも一回りほど大きな体に、金や朱の羽根を持つ色鮮やかな鷹である。

「・・行け」

のその小さな呟きに応えるように、それまで止まっていた彼女の腕から離れ、鷹――雀鴻は強く羽ばたいて蠢く黒に向かっていく。その翼から生み出される風はまるで刃のように黒を襲う。空を裂き、耳を貫く苦悶の絶叫が、あたりに木霊した。風に斬りつけられたそこから、黒いなにかが音を立てて噴き出す。ぎろり、と見たものを凍りつかせる黒の目が雀鴻を捉えた瞬間、あらぬ方向から飛んできた蠢く黒が雀鴻をしたたかに打ちつけるのと、それまで何事もなく立っていたの口からが零れるのはほとんど同時だった。

「いけない」

膝から畳の上に崩れたを抱き起こしたのは薬売り。目の前が白く霞む。げほ、と漏れた咳に鮮血が舞う。血の飛沫が薬売りの頬を、着物を汚すのがどうしてだかたまらなく哀しかった。今にも深みに堕ちようとする思考を無理やり叩き起こす。

「今は退きます」

立てるか、と問う薬売りにうなずき、2本の足で床を踏む。襲いくる眩暈に、足を踏ん張って耐える。ここで倒れたら、自分はただの足手まとい―――そんなの、まっぴらゴメンだ。成り行きを呆然と見守っていた家人の震える手。渡された手ぬぐいで口の周りを拭う。べっとりと染み付いた血糊に、よくもこんなに吐けたものだと自分で呆れながら、口の中を支配する鉄の臭いにうんざりする。

「人の世に在るモノノ怪は、斬らねばならぬ」

柱にもたれるようにしてずるずると座り込み、は薬売りを見上げる。呆然として、もはや声もない四の家人をそれぞれ見定めるように、薬売りはその鋭い瞳を向けた。低く、それでいて艶やかさを帯びた彼の声は、朗々と響く。

「モノノ怪を斬るには、剣を抜かねばならぬ」
「じゃ、じゃあ早くそれで斬ってくれればいいだろう!」

女のヒステリーも見るに耐えないが、男のヒステリックな声も十分聞くに堪えない。体は重いわ、眩暈はするわ、口の中が気持ち悪いわ、五臓六腑がじくじく痛むわ・・・この男についてきて、やはりロクなことはない。まったく店主の言うとおりだ、どうにかできるのなら、早いところどうにかしてくれ頼むから!

「剣を抜くにはモノノ怪の、まことことわり が要る」


は・・・―――みずち”」

剣の柄・・獅子の姿を連想させる翁がまるで、ものの真理を噛み砕くように カチン と音を立てた。


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