「己の吐き出す呼気により、人を害するモノノ怪――みずち。それが、

不意に、頬に触れてきた手には意識を取り戻す。先刻、堕ちかけた思考を無理やり叩き起こしてきたのが、逆に仇となったらしい。ずるりずるりと奈落へ引きずりこまれようとする意識をそのままにしてくれなかったのは薬売りで、どうやらこの頬に触れている掌も奴のものであるようだ。どうしたのだろう、まだ話の途中だろうに・・ああそうか、話の腰を折ってしまったのは自分か。ぼんやりとそう考えて、けれど何より、薬売りの掌が自分の吐いた血で汚れるのが嫌だった。


「モノノ怪の形を為すのは、人の 因果 と えにし 」


「よって、皆々様の まこと と ことわり ―――・・お聞かせ願いたく候」



剣を掲げ、薬売りは朗々と言葉を紡ぐ。逆らいがたい吸引力と存在感で場の空気を支配して。一つ呼吸をするのにも気を使うほど、張り詰める緊張。

「・・おぬしのいう、真と理とは、一体なんのことだ」
「“真”とは事の有様。“理”とは心の有様。形を得た今、その二つが揃えば剣は抜ける。すなわち、揃わぬまでモノノ怪は――斬れぬ」

ぐぅ、と喉の奥で呻く店主を感情のこもらない瞳で一瞥し、次に薬売りが捉えるのは蹲ったまま顔を上げない。その姿を目に留めて、それがすぅと細められたことに気付いたものはいない。

「・・早くしないと、奴はまた戻ってくる」

最初に口火を切ったのは、店主の妻だった。

・・・・お、お義兄にいさんよ! お義兄さんが、きっと死を恨んで・・っ。

なっ、何をふざけたことを!

「お義兄さん――とは?」

この春に病で亡くなった、長兄のことです。といっても、4,5年前に病で他界した前妻の子である長兄と、我ら兄弟に血の繋がりはありませんが・・・。

そう静かに答えたのは弟。その話の途中、背中を丸めた彼らの母が不愉快そうに表情を歪めたのを、薬売りだけが目に留めていた。

「病で他界した―――ねぇ? 母子揃って病で亡くなられた、と」

あ、怪しい死に方ではない! だんだんと・・目に見えぬくらいゆっくりと衰弱し、気が付いたときには床を離れられなくなっていた・・医者にも診せた、義兄のため、末の弟でも奉公人でもなく私手ずから薬も調合した! それでも、それでも治らなかった!

「大旦那が手ずから薬を・・・ですか。ところで、亡くなられたお義兄さんとは、一体どういう方だったんで?」

義兄あには・・末の弟である私から見ても、とてもよく出来た人でした。機転も利き、心根がとても優しく・・・誰からも好かれるような人でした。薬に手を出せない貧しい人に、こっそり薬を分け与えるような・・・あの義兄が、誰かに殺されなければならぬ謂れはありません。

「そしてその、よく出来たお義兄さんの代わりに、この大店の跡目を継いだのが―――貴方だ」

なッ、何が言いたい! 薬売り、貴様まさか――・・っ

「そのまさか、ですよ。良薬も、過ぎればそれは毒となる。・・・薬種問屋であるここで、貴方が薬を――毒を用意するのは、赤子の手をひねるようなものだったはず」

ざわり、ざわりざわりざわり。肌を嘗める不快感が、背筋を凍らせる絶対的な恐怖がずるりと体に入り込んでくる。血脈を通って全身を走りぬける悪寒が、指先を冷たく凍らせる。首の後ろがちりちりするような緊張が、すぐそこに――



「ふ・・っ、ふざけたことを抜かすなぁあああ!」



「薬売り、来るぞ!」

店主とが同時に声を張り上げたとき。 りん と一つ音が響き、まるでそれに共鳴するように鈴の音が幾つも幾つも、細波のように部屋中を満たす。部屋のあちこちに放たれた天秤は、みな同様に片側に傾き鈴をかき鳴らす。いつの間に手にしたのやら、両手に握られた幾つもの札が薬売りの手から放たれた! 数え切れない量の札は、彼の手、指の動き一つでその動きを変えて結界を形作る。じわりと墨が浮き上がり、次の瞬間それらは朱色の眼を剥く。

「下がれ!」

雷のような薬売りの声が彼らの母に命じるが、恐怖に支配された体にそれは叶わない。そのまま零れ落ちてしまいそうなほど目を見開いた姿に、力ずくで結界を破ったモノノ怪がその触手を伸ばす。迷いを感じさせず、まっすぐに―――触手が彼女を捕らえようとしたとき、しかしそれを切り落としたのは雀鴻の放った風の刃。畳の上に落ちたモノノ怪の一部は黒々とした何かを撒き散らし、後に腐臭を残しながら消えていく。

「早く、奥の部屋へ!」

唖然と立ちすくむ家人たちをけしかけ、彼らが奥の部屋へ逃れたことを確認した途端、膝が崩れた。自分の体が畳に転がる。腹の底から込み上げてくる気持ち悪さに思い切り咳き込んで、黒く凝固しかけているものをごぽりと吐き出す。どうやら先程吐いた血が、腹の底で凝り固まっていたらしい。今吐き出したもので全部なのだとしたらきっと楽になるだろうと、どこか他人事に考えていたら、自分の体が自分以外の何かで支えられた。地に足のついていないような ――いや実際のところ今自分は、己の足で立っているのではないのだけれど―― とにかくそんな落ち着かない状態。至近距離で見上げる隈取の化粧に、はひくりと頬を引きつらせる。

「ちょ、待ったストップ! だいじょう「随分と、無茶をする」

出会ってかれこれ2時間弱。付き合いが長いとも深いとも全く言えない状態で、しかもそれほどたくさんの言葉を交わしたわけではなく、どちらかというと信頼よりも不審のほうが先に立っているそんな関係。だがしかし、どうやら薬売りは機嫌を損ねているらしい。何故、と理由を尋ねるのは逆効果な気がした。

「・・・スイマセン」
「死に急ぐというのなら、止めやしませんがね」
「・・・ごめん、なさい」

なんだコイツ、意外と嫌味ったらしい。力を行使することで怪我を負い、血を吐こうともそれは全て、そうすることを選んだ自分の責任で、だから文句を言われる筋合いなど持ち合わせていない。けれど、そのせいでこの薬売りに迷惑をかけていることを無視できるほど、ズボラでもない。・・・ここまで、精神的に怒られなければならないのかについては、正直疑問が残るけれど。


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