雲ひとつない晴天のはずだった。空気はからっと乾いていて、山が雲をかぶっている様子もない。頬をなで、一つに結わえたの黒髪と遊んでいく楽しげな風があるだけの日。街道は多くの人で賑わっていて、薬売りが道端で荷物を広げずとも品が売れた。売れないときには、がどれだけ声をかけても、仕方なしに媚を売っても一向に売れやしないのに、ただ歩いているだけで数日分の宿賃が十分稼げたのである。しかもその際、気前のいいお客さんにおすそ分けだと飴やまんじゅうを貰ったりして、これはもう日頃の行いがいいからに違いないとほくそ笑んだりしていたのだが。

「・・嘘だろー!? なんで雨なんか!」

街道から離れ、山に足を踏み入れた途端、雲行きが怪しくなった。空はいかにも重たそうな雲に覆われ、鬱蒼と茂る森の中は澱んだ空気が立ち込めている。何度となく「戻ろうよー、街道を進んだほうが絶対いいってー!」と進言したのだが、薬売りに完全無視された。話を聞かないと決めたときの奴は、目線の一つすら此方にくれない。溜息と、纏った空気だけで意見を却下する。自分という人間の存在は、薬売りの中で一体どれくらいのものなのか是非一度聞いてみたい――・・と思ったがやっぱり聞きたくない。どうせロクなものじゃないに決まっている。

必然的に無言のまま、黙々と山中を分け入り、ようやく峠に差し掛かったあたりだった。パタッ、パタパタ・・ッ、と木の葉が揺れ、まさかと思ったころには牢ができそうなくらいの雨粒が、空から矢継ぎ早に落ちてくる。頭上を覆う木の葉で幾分かは和らいでいるはずなのに、降り始めて五分も経たないうちにびしょ濡れ。雨を存分に含んだ着流しが腕や足に張り付いて、動きにくいことこの上ない。首筋に張り付いた髪は、ただひたすらに鬱陶しくて仕方ない。こんなんだったら坊主にでもしてやろうか、と一瞬本気で思うくらいである。・・いや、すぐ我に返ったけれど。

ばしゃばしゃと足元の水たまりを蹴り上げながら、は前を走る薬売りの背中をじとりと睨む。だから街道を進んでおけばよかったのに、そうしたら雨宿りなんか簡単に出来たのに。鮮やかな色の薬売りの着物が雨を吸って、深い色に移ろっている。頭巾の結び目から、奴のやわらかそうな髪から雨が伝う。・・・神様は、どこまでも不公平だ。

――・・ってちょっと薬売り! お前番傘持ってんじゃん!」

騒がしい雨の音に負けないように声を張り上げた。

「傘は一本しかないんですよ。この雨は、傘一本じゃあ凌げない」
「・・だぁからあの時買っておけばよかったのに!」
「はい、はい」
「あ、今かっちーんときた。てか、今どこに向かって走ってるんだよ! わかんないんなら、街道に戻ったほうが・・・・」

突然だった。人の手が加わったようには到底思えない森の中にぽつんと、小さな民家が建っている。捨て置かれたのだろうか、と思うよりはやく台所から立ち昇る湯気が見えた。どうやら人が居るらしい。

「・・ほら、在った」
「なに得意気な顔してんの。さっさと行こう、これ以上外に居たら風邪引く!」

かたり、と薬箱の中でなった小さな音は雨に紛れ、の耳には届かなかった。



「すいませーん! 誰かいますかー?」

軒下からそう叫ぶ。樋から落ちてくる雨粒はこれまで雨に打たれていた身にも冷たく、首筋や顔に水滴がかかると体が反射的に震える。後ろで一つに束ねた髪を雑巾でも絞るように捻れば、手の内に水が溢れて地面に散った。降りしきる雨のせいで、音は聞こえない。ふと見遣った先で、薬売りは朝露に濡れた花菖蒲の色へと様変わりしてしまった頭巾を手に、己の前髪をぼんやりと持ち上げたりしている。淡い飴色をした奴の髪はたっぷりと水を含んで、ぽたりぽたりとその先から雫を滴らせ、頬をすぅと雨粒がなぞる――・・・自分に絵心があればとは己の無力を噛み締める。もしも、もしも自分に絵心があれば、今自分の目の前で繰り広げられている光景を美人画ならぬ錦絵にして売り出すのに! 飛ぶように売れること間違いなしだ。

「・・何を、考えておいでで?」
「っ何でもないです! (え、ばれた!?)」

問い詰める視線と逃げ惑う視線が噛みあわないまま少し時が経ち ――というか、実際に過ぎた時間は数秒で、薬売りの視線をかわすことに神経を費やしすぎた結果なのかもしれないのだけれど―― 民家から出てきたのは若い女の人。歳は大体二十四、五といったところか。これならば、今夜の宿は頂いたとはにやりと笑う。水も滴るいい男を体現してみせる薬売りを目の前に、一晩の宿を断ることのできる年頃の娘がいるのなら、それは是非ともお目にかかってみたい・・・・鏡を見て、そこに映ったのがその稀有な娘であるという事実については、深く考察しないでおく。臭いものには蓋の原理だ。

「あの・・どちらさま、でしょうか?」

ちら、とに注がれた視線は自然、薬売りへと引き付けられる。奴を見上げる視線がほんのわずか、桜色を帯びた。――・・・ふっ、勝った。

「いえ、突然の雨に降られちまいまして・・・。少しの間、雨宿りをさせちゃあ、もらえませんかね?」
「あ・・はい、どうぞ・・・」

背後で降りしきる雨脚が、強くなった。


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