「――ほう・・・雨がまた一段と、酷くなりましたね」
「ええ・・・この山は特に、雨が多いんです」
雨を凌ぐための屋根を貸してくれた女性・・・お美津さんが淹れた茶を静かに啜り、薬売りがぽつりと零す。茅葺の屋根を叩きつける雨は降り始めのころよりも一層その雨脚を強め、地面を打ち付ける雨の音が土間の窓から入り込んでくる。隙間なく落ちてくる白い矢は、ほんの一メートル先のものすら判別をつきにくくして。重く沈んだ空、無言を貫く暗い森、降りしきる冷たい雨。まるでこの小屋に、閉じ込められたかのような――・・・
「それはそうと、すみませんね・・・着物まで貸していただいちまって」
替えの着物までぐっしょりと濡らしてしまい、どうしたものかと途方に暮れた自分たちに着物を貸してくれたのは、他ならぬお美津さんだった。いま薬売りは普段のど派手なものではなく、薄浅葱の着流しに身を包んでいる。わざとなのか知らないが襟元を少し着崩して・・・どこまでも嫌味な野郎だ。
「いえ、いいんです。・・・どうせ着る人も、ありませんから」
「――と、いいますと?」
「父のものなんです。昨年、病で・・・」
「そういうこと、ですか。じゃあ少しの間、すみませんが」
ずずず、と茶を啜った薬売りはやがてにやりと口元に笑みを浮かべた。そして、閉じられた戸に向かって言葉を放つ。
「? さっさとしないと、折角淹れてくださった茶が冷めちまう」
「・・るっさい」
「飲んじまっても、いいんですかい?」
「・・勝手にすれば」
「おや、茶菓子もあるってのに・・珍しいこともあるもんだ」
「だぁからうるさいって!」
「慣れない着物に手間取ってるんなら、手伝いますよ」
「結構です、この色魔!」
「・・・・・ほう? 脱がして欲しいとはまた、随分と大胆な」
「ちょっと誰か、通訳呼んできて! もしくは医者!」
自分の荷物もまた、びしょ濡れだったのだ。洗濯したての如く色を変えた着物は、部屋の隅に吊り下げられている。それを恨みのこもった目でじとりと睨み、自分の体を見下ろして――思わず漏れる溜息を、は止めることができなかった。
当然といえば、当然なのだ。宿屋で部屋を取るとき、宿賃をケチるために歳の離れた兄弟を装ったり、道行く客や商人に問われたりしたとき、面倒くさい上に意外と便利なので男だと嘘をついたりしても、は紛うことなく女である。いくら男と勘違いされようと、帯を解けばあるのは女の体。ならば――お美津さんが自分に差し出す着物は、女物に決まっている。
「――ほう・・なかなかに、面白い」
「面白いゆーな」
鮮やかな
「折角着せてもらったってのに、そんな顔してちゃあ着物が勿体無い、ですぜ?」
「大きなお世話だ」とは心の中で毒づいた。自分が反駁して言い返せば言い返すほど、この男は言葉を上乗せしてくるのだ――しかも、反論の余地を与えないほどの的確さをもって。だから、絶対に言わない。自分で分かるほど口をへの字に曲げて、愛想の欠片もない表情でお美津さんの隣に座り、淹れてくれた茶を啜る。喉を下っていく温かさが全身の隅々まで行き渡り、雨に打たれて冷えた指先がじわりと熱を持つ。そうしてようやく、自分の体が思った以上に冷えていたことと、喉がひどく渇いていることに気が付くのだ。
「・・・美味しい」
「そう、それはよかった」
す、とお美津さんの白くて細い腕が伸びてきて、顔にかかっていた前髪を分けた。一瞬だけ触れたお美津さんの指先はまるで氷のように冷たくて、思わず体がビクリと跳ねる。お美津さんの手がゆっくり、静かに髪を梳く。するとなんだかこう、力が温かさに解けていく気がする。思考を働かせることが、感情を動かすことが酷く億劫に思えてくる。全身をぬるま湯に浸しているような、この手に掴もうとしてもするりと逃れてしまうような、曖昧でしかし瞼がとろりと重たくなる安らぎ。心がすぅと沈んでいく。
「・・そうしていると、それ相応に見えるもの、ですね」
―――・・なん、ですと?
「“馬子にも衣装”とは、正にこのこと・・・ですか」
「よぉし薬売り、お前ちょっとそこになおれ!」
ギン、と目を剥いて薬売りに掴みかかろうとしたとき。立ち上がった拍子に湯飲みが倒れ、まだ残っていた茶が散った。残り少なかったとはいえ、零れた茶が畳に染み込む。
「ご、ごめんなさい!」
「火傷などしていない? 大丈夫?」
「あ、はい! 平気・・です」
「なら、良かったわ。私が片付けるから、ここにいてください」
「でも、」
「いいから・・・ね?」
ごめん、なさい・・と小さく呟いたの頭をふわりと撫でて、お美津さんが土間へと消える。残された手の感触に、申し訳なさが募りそして・・・・平然としたツラして茶を啜る薬売りに、苛立ちが募る。
「・・薬売りのせいだからな!」
「・・・・」
「お前も少しくらい謝れよ」
「・・・・・」
「ってちょっと、完全無視? 完全無視ですか薬売りコノヤ「」
「すみません、ちょっと調子乗りました」
反射的に頭を下げ、そして――見上げた先で薬売りは、それまで口の端に浮かべていたはずの笑みを完全に消し去っていた。え、もしかして本気で怒らせた?と青ざめるより早く、薬売りの目がまるで・・まるで、モノノ怪と対峙しているときのような鋭さを帯びていることに気付く。思わず息を呑んだ。
「薬、売り?」
「ありませんか」
「・・なにが」
「体が重いとか、気持ち悪いとか・・ですよ」
「ない」 首をふるふると揺する。薬売りから放たれる緊張の糸が、一度は沈もうとした思考を釣り上げる。
「・・・なら、いいんですが・・ね」
「いるのか?」
「・・・・さぁて、ね」
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