――・・

体を揺さぶられ、思考に入り込んでくる低い声にははっと目を覚ます。覗き込んでくる瑠璃色の双眸が、意識を現へと引き寄せた。灯りを落とした部屋には、薬売りが手に持った火があるだけで、その仄暗い明るさがしかし、闇に慣れた目には酷く眩しい。咄嗟に勢いよく跳ね起きて、現状把握を試みる。

「大丈夫、ですかい?」
「ッ、俺――・・・?」
「顔色がよくありませんぜ」

ひたり、と額に押し付けられた薬売りの掌がひんやりと冷たい。導かれるように瞼を閉じると、周囲が闇と無音に包まれる。どくん、どくんと脈打つ鼓動が体中に木霊して、それはまるで100メートルを全力ダッシュした後のような。小刻みに荒い息を吐き出して、唾を飲み込む。喉が酷く渇いていた。

「随分と魘されていたが・・・悪い夢でも、見たんですかい?」

手渡された湯飲みから、水を喉に流し込む。清らかな冷たさが喉を通り、胃袋に収まるのを神経で追う。湯飲みを支える指先が小刻みに震え、そして凍えているのに気が付いたのはその後だ。

「嫌な夢、見た・・・っ」
「ほう・・・それは、どのような?」
「どんなって――・・あ、れ・・・?」

掴みかけた何かが、するりと指の隙間から逃げていく。ついさっきまでそこに在ったはずのものが、ない。口に出そうとする端から、言葉にしようとする傍から、蜘蛛の子を散らすように消えていく。心の中に、感覚は残っているのに。良くない夢を見たという記憶が、心の表面がざらつく嫌な感じと感情の動きだけを宿している。胸の内に巣食う漠然とした、それでいて色濃い恐怖。

「わ・・忘れた。なんかよくわかんないけど、すごく、怖い夢を見たような気が・・する」
「怖い夢――ですか」

基本的に、夢を見るタイプではない。眠ったときそこに待っているのはただひたすらに闇で、何かが登場したりすることはごく稀だ。それはもしかすると夢を見ていても、忘れているだけなのかもしれない。けれど、今のように「夢を見た」記憶はあるのに、その断片を一つも思い出せないのは・・欠片の一つも思い浮かべられないのは、おかしい――ような気がしないことも、ない。

「夢なんてすぐ忘れちゃうし、それに怖い夢見たんだったら、忘れちゃってても別に、いいよな!」
「・・・・」
「困ることがあるわけでもないし、むしろ忘れちゃってるほうがいい・・・・そう、思うよな?」

薬売りと視線を合わすことが出来ない。今あの鋭い双眸と向き合ったら、今飲み込んだ言葉が溢れてきてしまう。瞳の奥に隠した恐怖を、読み取られてしまう。言葉には、力があるとは思う。自分は今恐怖しているのだと、見えない何かに対して酷く怯えているのだと言葉にすれば、それがの全てになる。もしも今、薬売りに「怖いんですかい?」などと言われてみろ。自分には今、奴の言葉を否定するだけの力はない。

ぎゅうと握り締めた薬売りの着物の袖。かたく握った拳に薬売りの手が触れる。奴の手が温かいのではない―――自分の手が、冷たいのだ。

――・・・そう、ですね」

その時、窓の外に白い光が炸裂した。空気を切り裂く雷鳴が大地を揺らし、大気を轟かせる。天を割った光の矢はどうやら、近くに撃ち下ろしたらしい。ざあざあと一分の隙間もなく埋め尽くす雨の音を押しのけて、鼓膜を打つ。

「・・雨、まだ降ってたんだ」
「ああ。やむ気配もない」

静かに、薬売りが腰を下ろす。自分の感情を読み取れるほど近くはなく、けれど孤独に身が凍るほど遠くはない。手を伸ばせば触れられるが、伸ばさなくても存在を感じられる距離。体の中にある空気を入れ替えるように、は大きく吐息をつく。

「あれ、そういえばなんで薬売りここにいんの?」

降りしきる雨のせいで夜はいつも以上に暗く、けれど今が深夜であることはなんとなく分かる。じじ、と小さな音を立てて燃える行灯の小さな灯りに照らされて振り返る薬売りは、最後に休みの挨拶をしたときと変わらない。髪はゆるく結ばれたままだし、着物もそれほど崩れているわけではない。匂いも別に常と変わらず、だから自分の中では至極当然な疑問が首をもたげる。

「なんで、とは? 同室で構わないと言ったのは、だろう」
「うん、いやだって――お美津さんの部屋に行くのかと思ってたから」
―――・・・はい?」

お美津さんはとても綺麗な人だったし年頃だったし、まんざらでもなさそうだと思ったのだけれど。

「・・どういう、意味です?」
「えー、俺そういうの言えない人だから」
「・・・・・・」

―――・・あ、あれ? 今なんか地雷踏んだ?

すぅ、と薬売りの纏う空気がその温度を下げる。只でさえ光源の少ないこの部屋に闇は色濃いというのに、奴の周囲はその闇がより一層深い気がする。悪寒が背筋を駆け抜ける。かぁんかぁんと頭の中に警鐘が鳴り響く。大 音 量 で。

「あ、えっと・・そろそろ、寝よっかなー! お、おやすみな「そういうの、とは――どういうの・・でしょうねぇ?」

目が・・目が笑ってないよ薬売り! 口元は確かに笑っているが、何この底冷えするような恐怖。ぞぞぞ、と足元から這い上がってくる怒り由来の冷気が体を震わせる。これほどまでに端整で、妖艶で――恐ろしい笑顔を初めて見た。ひく、と己の顔の筋肉が引きつる。

「いや、そのホント、なんでもないです」
「俺はどうも、頭の回転が遅くっていけない。俺にもわかるように、ちゃんと説明しちゃあ、くれませんかね?」
「や、その只の早とちりなんで、別に本音とかそういうんじゃ「ほう、 “本音” ――ですか」
「・・・やべ」


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