――、起きて」

その声に導かれるように、はゆっくりと目を開ける。一番に目に飛び込んできたのは、瑠璃色。溶けていた意識を掻き集め、言われるままに起き上がる。もう朝だろうかと思って辺りを見回し、闇の深さに眉根を寄せる。ざあざあとうるさい外は塗りつぶされたように黒一色で、いくら雨と言っても暗すぎる。とてもじゃないが、朝とは思えない。

「・・今、何時?」
「丑の刻、ですよ」  丑の刻――午前二時のことである。
「ふざけんな、嫌がらせにも程ってもんがあるだろ!」

悪夢を見た朝、つまり雨宿りのために一晩明かした次の日も、それは酷い雨だった。灰色に渦巻く雲が空を覆いつくし、降ってくる雨粒には休みがない。傘を差したところで十五分もすれば足元はぐしょぐしょになるだろうし、傘を差さねば三分やそこらで濡れ鼠だ。いつもの着物を身につけ、薬箱を背負った薬売りが天を見上げて「ふむ・・・」と考え込む様子に、もしかして強行軍を貫くつもりだろうかと冷や汗をかいたりもしたが、そこはやはり薬売りである。「・・面倒なので、雨が止むまでお世話になっても・・・よろしいですかね?」の一言に小躍りしたのは、致し方なかったと思う。貸してもらった真朱の着物から着替えなくていいだけでも随分と楽だ。

結局その日も雨は一向に和らぐ気配を見せず、今はその、二泊目の夜である。

「折角いい夢見てたのにさー! 起きるんじゃなかった畜生め」

ゆるく手を握り、拳を奴の顔めがけて突き出す。もちろん本気じゃあない――命の綱渡りは、昼間の生活で十分事足りている。ぽす、と受け止められた拳を薬売りの白い手が包んだ。その掌の温かさに思わずぎょっとする。

――どんな夢を、見たんです?」
「え、」
「どんないい夢を?」
「どんなって――・・あ、れ・・・?」

喉まで声は出掛かっている。舌の上に言葉は在る。なのに、口を開いた途端それらは跡形も残さず消えていく。思い出そうとすればするほど、記憶を辿ろうとすればするほど、輪郭が朧になる。形が崩れていく。全てがぼんやりと曖昧になって・・・何を思い出そうとしていたかすら、見えなくなる。

「何だっけなー。なんかすげー楽しくて、幸せな夢見てた気がするんだけど。忘れたわ、綺麗サッパリ!」
「いい夢まで・・・忘れちまったんですかい?」
「みたい。でもまぁ別にいいだろ、どーせ夢だし。思い出したら話してやるよ!」


―――・・・それじゃあ、手遅れ、なんですよ」


視界がいきなり、反転した。突然の衝撃に耐え切れず、再び枕に後頭部を埋める。見上げた目に映るのは、暗い天井と薬売り。枕元に置かれた行灯の火が揺れると、薬売りの顔に出来た影も揺らいだ。匂い立つほどの色気に、は知らず喉を鳴らす。

「こ・・今度はどういう、嫌がらせですか」
「嫌がらせとは、また・・・・それを言いたいのはむしろ、此方のほう、なんですがね」
「どういう意味だよ」
「その人の中から・・・・いい加減、出てきちゃあどうです」

意味が、わからない。前々から思っていたが、勿体ぶり過ぎているせいで何を言いたいんだかもう、サッパリだ。第一なんなんだこの状況は! なんでコイツに押し倒されなきゃならない。 “その人の中から出てきたらどうだ” ? その人も何もない――私は、私に決まっている!

「何わけわかんないこと言ってんの、薬売り。遂にトチ狂った?」
「・・・この人を起こすのが、先か」

ふっ、と薬売りの面を飾っていた影が、濃さを増した。まばたきをしたその一瞬で、奴の顔が鼻先三センチにある―――ちょっと待て、一体全体どういうことだ! 近い近い、近すぎるぞ薬売り! 心臓が一際大きな音を立てる。ぎょっと目を剥く。薬売りの匂いが鼻を掠める。唾を飲み込む。流れ落ちる奴の髪が頬をなでる。ぞくりと肌が粟立つ。奴の口からわずかに漏れた吐息が唇をなぞる。腹に力を・・・溜める!

「ふ・・っ、ふざけんなぁあああああ!」




―――そこでようやく、目が覚めた。


「ああ、起きましたね」

がばぁっと起き上がったとき、広がっていた光景には言葉を失った。 “今ようやく” 目が覚めたらしい自分。白い着物・・・死装束を纏った体。己が座っている布団の周りに整然と並ぶ天秤たち。布団と死装束に貼り付けられた大量の札。自分に背を向け、退魔の剣を掲げる薬売りと―――そして、

「・・どうして、なんで・・・ッ、何でここにモノノ怪がいるんだよ!?」

体が重い、気持ちが悪い、吐き気がする。この激しい疲労感は一体なんなんだ!

「なんで、なんだよこれ・・・っ、俺、赤い着物、着てたのに・・! こんなの、知らな・・ッ!」
「夢を、見ていたんですよ」

す、と薬売りが舞うように両手を宙に踊らせる。その掌から現れた札が薬売りの手の動きに従って空中を舞い、そして放たれた。じわりと墨を浮かび上がらせたそれらが紅に染まると、モノノ怪が低く唸り声を上げ、そしてずるりと距離をとる。その血のように赤い目に吸い寄せられるようにが視線を向けたとき、着物の袖でそれを遮ったのは薬売りである。

「見てはいけない。力を、吸われる」
「どうして」
「前に言っただろう。は、モノノ怪に狙われやすい性質だと」
「今までが見ていたものは全て、こいつが見せていた  ですよ――人の夢を食むモノノ怪  が・・・ね」

退魔の剣が カチン と音を立てた。


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