「俺が見ていたのが全部・・ 夢 ? モノノ怪が見せた、幻 ・・・?」
「ええ、まぁ」
そんな、そんな馬鹿な話があってたまるか! 押し伏せられたときに実はさり気なく肘を打っていて、でも状況が状況だったから言い出せなくて・・この腕はその痛みを覚えてるのに! 夢の内容は覚えていないけれど、夢を見たという記憶はあるし、まだ薬売りとした会話だって憶えている。鮮やかな朱の着物をお美津さんに着せてもらって・・・・、
「そうだ・・お美津さんは!? あの人も幻だって言うのかよ!?」
「・・・だ、そうですぜ? お美津さん」
消えたモノノ怪に背中を向け、振り返った薬売りの視線が自分を通り越して後ろへ移る。弾かれるように振り向いて、そこにいた人物には表情をぐしゃりと歪める。
「・・ッそんな、嘘だろ!?」
――そこにいたのは、齢七十をとうに越えたと思しき老婆だった。
がくん、と膝から力が抜ける。展開が急すぎて何がなんだかもう、頭がついていかない。逃げるように視線を背け、けれど目に入ってくる己の姿――着た覚えのない死装束がどうしようもなく怖い。ぎゅうと目をつぶり、記憶の糸を手繰り寄せる。いい夢の途中で薬売りに起こされた。雨が降り続いていた。雷が鳴った。怖い夢を見た。お茶を貰った。着物を貸してもらった。お美津さんと出会った。この家を見つけた。雨に打たれた。山に入った。街道を歩いた。まんじゅうや飴をもらった。薬が売れた―― この夢の始まりは、どこだ。
「・・惜しいことをした」
「・・、お美津さ・・ん?」
俯くの髪を、皺と筋だらけのまるで棒切れのような手が梳く。その冷たい指の感触が、記憶の中に在る感触と重なって背筋が凍った。――・・そうだ、お美津さんの手は氷のように冷たかった。まるで、生きているものとは思えないほどに!
「あと少しで、その力を全て吸い取れたものを・・・・ほんに、惜しいことをした」
「・・痛ッ」
こめかみの辺りに痛みが走る。ぷつ・・っ、と何かが切れるような感じがして、生温かい液体が頬を伝う。お美津さんの鋭い爪が頬をなでて、じわじわと痛みを放ち始める。彼女の手を流れ落ちていく赤は、自分のものとは思えないほど鮮やかな色をしていた。
「・・に、触れるな」
薬売りの低い声にびくりと体が跳ねた。自分の目の前にある得体の知れない恐怖に竦んだ体が、その声で自由を取り戻す。弾かれるように顔を背けると、お美津さんがくつりと喉の奥で嗤った気がした。
「この娘に傷をつけられるのが我慢ならんのか、それとも儂らがこの力を得ようとしているのが気に食わんのか・・さて、どちらかのう」
「・・・・・それ以上傷が増えたら、その人の嫁の貰い手がなくなってしまうもので、ね」
余計なお世話だ、放っておけ! ――と叫ばなかっただけ、大人な対応だと思う。
「退魔の剣を抜くのに必要なのはモノノ怪の、 形 真 そして 理 」
「俺はこのモノノ怪を斬らねばならん。あんたの真と理――・・お聞かせ願いたく候」
ゆらり、と後ろに下がったお美津さんが、唇を弧の形に吊り上げる。にたりと笑んだ口元から、赤い舌がちろりと覗く。いかにも可笑しそうに、小さく肩を揺らしてくつくつと笑う。ぞくりと背筋を冷たい何かが伝う。いつだって本当に恐ろしいのは、モノノ怪を作り出す人の思いだ。
「斬ると・・そうほざくか、薬売り」
「・・・人とモノノ怪は、共に在ってはならん」
「 “人” ・・か。のぅ、聞かせてくれ薬売り。――儂は、 “人” か?」
「人だ。それ以外の何物でもない」
そうか、まだ “人” か・・・・、そう呟いたお美津さんは口元を歪めながら、けれど酷く寂しそうに見えた。記憶の中に在る、若いお美津さんの姿がちらつく。着物を貸し与え、茶をやり、髪を梳いて――彼女は何を考えていたのだろう。頭をなでるあの手付きに感じた安らぎは全て、自分を絆すための作り物だったのだろうか。
「ここは元々、雨の多い場所での・・・」
大きな嵐が次から次へと襲来したときの土砂崩れは、そう珍しいことでもなかったらしい。この山の麓に作られた里はしばしば災害に見舞われながら、けれど肥沃な土地に根付いた生活を捨てることも出来ず。深い森やこれまで先人たちが言い伝えてきた教えなどに守られてきたといえど、ふと思い出したように自然が振るう猛威には逆らえない――
「その年は酷い嵐が立て続けにやってきてのぅ――・・・多くの人間が、生き埋めになった」
大いなる天災の前にひれ伏すしか出来ない人々が、次にすること。抗いがたい厄災を逃れるために、盲目的に人々がすることは。
「――人柱には、儂の娘が選ばれた」
十七、八の年頃の娘が、ある日突然告げられる・・・村のために、死んでほしいと。逆らうことは許されない、己の命一つと村人全ての命が、自分以外の人間の手によって秤にかけられる。どちらに傾くかなど考えるだけ時間の無駄だというのに、それをまざまざと見せ付けられて。当然のように来るものだと思っていた明日が、不意に途切れて。やりたかったことや見たかったものを、急に取り上げられて。
――彼女たちは奪う、人の夢を。見ることすら許されなくなった夢を、求めて彷徨うのだ。
「――・・ 真 を、得たり」
退魔の剣は、啼かない。
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