「これがモノノ怪の真じゃあ、ないのか?」
「どうやら、そのよう・・ですね」
ずるり、と体の中に入り込んでくる不快感。肌に纏わりつくねっとりとした空気が不意に、その濃さを増した気がした。気配が、迫ってくる。しかし部屋中の天秤や貼られた札は、まだ変化を示さない。考えすぎだろうか、と視線を漂わせて―――丁度、薬売りの背後にあたる壁に貼られた札が、じわりと朱に染まった。それはまるで水に落とした波紋のように辺りに広がり、壁一面を紅に染める。ぞくりと背筋が凍った。
「後ろだ、薬売り!」
りん という鈴の音と己の叫び声が重なり、そして朱色の中心にあった札がぼろりと崩れて散った。まるで役目は終えたとばかりに黒く変色して形を失う。薬売りが身構えるよりはやく、崩れた結界からモノノ怪がその常闇のような腕をずるりと伸ばす!
「薬売り、下がれェッ!」
気持ち悪いとか怖いとか嫌だとか苦しいとか・・いつだって自分に纏わりついて離れなかった感情はその一瞬、完全に消え失せていた。自分の身を挺してまで守りたいなんぞ、そんな図々しいことは思ったことも、これからも思う予定はない。自分が今こうして、薬売りの隣にいることを許されているのはきっと、守らなくてもいいからだ。彼にはやらねばならぬことがある。自分にだってやらなければならないことがある。守れるのは、自分の中に在る決意と使命だけ。 “異能の力” という自衛の手段がある私は奴に守られてはならない―――・・けれど。
「!」
けれど、考えるより先に体が動いた。足が畳を蹴り、両腕を広げて薬売りの前に躍り出ていた。モノノ怪が己の体に触れる。どうしようもなく体が重くなり、思考が沈んで、意思が蝕まれていく。音が静寂に飲まれて、視界が黒に塗りつぶされて、輪郭が闇に溶けていく。最期とはかくも穏やかなものなのだろうか――・・・形の一片、意識の欠片も残さず、闇と同化しようとしたとき。
誰かに、頭を撫でられた気がした。
す、と目にかかる前髪をよけて、白い指がゆっくりと髪を梳く。冷たい指に宿るのはありったけの慈愛と優しさ。この手に持ち続けるのは難しそうな、けれど抗いがたいこの安らぎをは見知っている。開こうとした口は深い闇の中で叶わず、けれど静寂の中で耳が音を捉えた。
「・・・・小夜」
「起きろ、!」
ばし、と思い切り頬を張られた。痛みと共に思考に割り込んでくる声が、ともすれば闇に溶け込もうとする意識を引き戻す。じんじんという痛みを引きずり、恐る恐る瞼をこじ開けて――・・・ああ、やっぱり気絶したふりを続けておけばよかったと思った。瑠璃色の宝石は、あからさまな怒りを宿している。美人は怒っていても確かに美人に違いないが、その分だけ空恐ろしい。今ならきっと、その眼光一つでモノノ怪を斬れると思う。
「・・・ほう、この期に及んで寝たふりとは・・・・いい度胸だ」
「寝たふりだってしたくなると思います」
だって今現在、怖いのはモノノ怪よりも薬売りだ。
「大事はない、ようですね」
「・・・この着物、夢の中で着てたやつだ・・・・」
見下ろした体は、真朱を纏っていた。染め抜かれた鮮やかな朱色がどうしてだか酷く懐かしい。心が、体に戻ってきた感じがする。ああそうか、今の自分は自分であって自分ではないのか――脳裏に浮かび上がる見た憶えのない光景。知らない景色。これは、私のものではない。
「・・さ、小・・夜・・・っ?」
お美津さんが、驚きと畏怖に顔を引きつらせて呟いた。 “小夜” という知らない名前が、けれどしっくりと耳に馴染む。ふわり、と体を包む着物が温かくなった気がした。心をゆっくり溶かしていく。
「小夜、とは・・・・誰のこと、ですかい?」
「・・ッ」
「――村のために人柱になったお美津さんの娘さん、だよな?」
今度こそ自分を見るお美津さんの瞳に、恐怖が宿る。どうして、と訴える顔には年齢が刻んだ皺が色濃く現れて。つきん、と心が痛む。感じた痛みが私のものなのか、それとも違う誰かのものなのか・・もう判別がつかない。視界の端で、薬売りが退魔の剣を掲げた。
「・・夢の中で、俺はこの着物を着てた。今よりもずっとずっと若いお美津さんにお茶を淹れてもらって、髪を梳いてもらった」
髪を撫でてもらったときのあの手付きは、紛うことなく本物だった。
「すごく・・すごく、優しくしてもらった。―――・・まるで、母さんみたいに」
大きく見開いたお美津さんの目から涙が溢れた。深く刻まれた皺を伝って涙が流れ落ちていく。薬売りがその目を細くし、くつりと笑う。真を目の前にして、カタカタと退魔の剣が震える。私は体を明け渡す。
「・・ねぇ、憶えてる? この着物を縫ってくれたときのこと。私は憶えてるよ、今でも」
「次の誕生日がきたら、十九になるその日に着せてくれるって約束・・・私、まだ忘れてないよ」
「・・・大好きだよ。だから私が守る、きっと守るよ―――・・・母さん」
「モノノ怪の真は人柱となり、その若い命を散らしてしまった娘たちでは、ない。――ある日突然娘を奪われて以来、恨みを抱き続けたお美津さん・・・あんたが 真 」
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