その日――と薬売りが、行動を共にすることになった日は結局、その街で宿を取ることになった。薬種問屋での一騒動を終え、茶をしばいて一服したら時刻は4時過ぎ。隣街へ移動するには時間が多少物足りない。
「こちらの宿に、しましょうかね」
だがきっと、薬売り一人なら次の街へ動いていたのだろう。そう考えると、自分はやはり足手まといなんじゃないかと思ったりもするのだが、あの薬売り相手にうじうじ悩んだところで時間の無駄だ。あの一件で、そりゃもう歩いているのも立っているのも億劫なくらい体力を奪われているのは認めざるを得ない事実。それなら、薬売りが与えてくれた時間に甘えることにする。
「部屋を二つほど、お願いしたく」
薬売りの応対をしているいかにも快活そうな宿の女主人が、遠慮の“え”の字も知らない様子で薬売りを凝視した後、隣へ並ぶ自分へも視線を投げてきた。良くも悪くも興味津々なその目にひくりと頬が引きつるのが自分で分かる。が、生まれついた愛想のよさというか、“とりあえず笑っとけ”精神が反射的に働いた。ひらひらと手を振ると、女主人は楽しそうに笑う。
「おやおや、随分と別嬪さんだこと! 貸したいのは山々なんだけどねぇ、今夜は客がやたら多くて。残りは一部屋だけなんだよ」
ひとつ、薬売りが瞬きをした。
「それは――些か困りま「男二人でむさ苦しいかもしれないが、勘弁しておくれ」
―――時がカチリと音を立てて止まったのを感じたのはおそらく、自分と薬売りだけだろう。わかっている、こんな男物の格好をしている自分が悪いのだ。向こうには何の悪気もなければ、意図もない。真実そう思っているに違いなく、だから思わず言葉を失った自分たち投げかけられる言葉は全て好意に基づいた冗談で・・・わかっているが、しかし。
「たまにゃあ同じ部屋、兄弟水入らずで夜を過ごすってのも悪かないと思うさね。それに二人ともこれだけイイ男なんだ、娘っこの一人や二人すぐに引っ掛かるだろうよ。ま、好きに使ってくんな」
―――このときの衝撃を、どう言い表したらいいだろう。空から落ちてくる金ダライを少なくとも連続5個、脳天に見事直撃させたような・・・豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまった人間を目の当たりにするような、にこやかに微笑み、饒舌に語る薬売りに出くわしてしまうような・・・。つまり、“そんなの絶対ありえない”ほどの衝撃である。
「・・・・きょ、う・・だい・・?」
知らず、言葉が片言になってしまうくらい見逃してくれてもいいと思う。
「あたしもアンタたちくらい綺麗な顔の息子が欲しかったねぇ、そしたらまったく鼻高々ってもんだよ! って、あたしと旦那のこの顔とあの顔じゃ到底無理な話しかね・・・っておや、どうしたんだい突然固まっちまって」
キョウダイ、きょうだい、兄弟・・・!? ど派手な格好をしたこの薬売りと兄弟! そんな、どうしてそうなる。別にこっちはそんな奇怪な格好はしていないのに・・ということはやはり薬売りが兄貴だろうか。あ、兄ちゃん役のほうがよかったな・・とかそういうのは関係なくて! なんだかもういろんなことが「あいたたたー」である。
「二人とも随分といい男だから、血を分けた兄弟かと思ったんだが・・・違ったかい?」
「いやまぁ、そんなところです」
肯定とも否定ともつかない実に曖昧なニュアンスで、折角の訂正するチャンスを彼方へ吹き飛ばしてくれちゃったよこの薬売り。面倒くさくなったのか面白いと思ったのか、はたまたその両方か。十中八九両方だろうと心の中で溜息をつく。こうなったら乗りかかった舟だ、やりきるしかない。世間の荒波を渡っていくのに必要なのは、テンポとノリとある種の諦めである。
「げ、兄ちゃんと同じ部屋かよ」
「・・・・」
女店主には悟られない程度に、薬売りがぎょっと目を剥いた気がした。
「仕方ねぇ。兄ちゃん、俺そのへんで女引っ掛けて泊めてもらうわ。今夜は帰らねェと思うから好きに使えよ」
―――・・自分でも「あ、やりすぎた」とは思った。というか、こんな台詞がスラスラと板について出てくる自分がいやだ。どうしてこうなっちゃったかなー・・、と思わず己の半生を振り返りそうになったとき、がしりと手首を掴まれて思考を手繰り寄せる。あれ、なんか兄ちゃん機嫌悪そう――薬売りを見上げては思う。
「それでは、今晩は世話になります」
「いや、こちらこそ悪いねぇ。ちょいと、あんまりお兄さんを困らせるもんじゃないよ?」
この台詞はアレか、自分にかけられたものか。
「けっ、わかってらァ!」
「じゃあ、ごゆっくり」
+ + + + + + + + + +
「やり過ぎ――ですよ」
「・・うん、自分でもちょっと、やり過ぎちゃった感はあります・・はい」
薬売りの前に正座して、は首を丸めて小さくなっていた。足が痺れてじんじんする。つま先をゆるりと動かして、体の中を駆け抜けた痛みに涙が滲む。「足を崩してもいいですか」と問えないのは、表情を変えずにしかし視線だけで非難を伝える薬売りが自分の前に正座しているからだ。
「は確かに男のように見えるし、無礼を承知で憚りなく言えば、とても
「・・・・・」
「しかし生まれてくる性別を間違ったとて、は女子。さっきのような物言いは、感心できない」
「あの、もう少し包み隠した物言いをしてくださいませんか。流石の俺でも泣けてきます」
いやーん、兄ちゃんがいじめるー・・・と一の軽口を叩いたら、十の冷笑がくすりとも笑っていない眼光と共に突き刺さった。怖い、怖い怖すぎる! さっきのモノノ怪がなんだ、自分の目の前に居るこの男のほうがずっとずっと恐ろしい。「ご、ごめんなさい・・」と素直に呟いて、降ってきた溜息に思わず身が竦む。
「どうするつもりですか。兄弟だと言ってしまった今、部屋に衝立を用意してもらうのも変な話、ですよ」
兄弟だと言ったのは自分ではなく薬売りだと思うのだが、それを言ったら最低でも15分は説教が長引くだろう。
「別にいいじゃん。兄弟だって言ったんだから、布団が一つしか用意されないなんてことにはならないだろうし」
「・・・・・・本気で、言っていますか?」
「え、今冗談を挟んだつもりは全然ないです」
「―――・・あんたはなんにも、わかっちゃいない」
溜息に、ありったけの呆れをのせて。ともすれば哀れみすら感じさせる視線はひどく居心地が悪い。痺れた足を動かしてずり下がりたいのは山々だが、もはやピクリとも動けない。す、と立ち上がった薬売りの手が伸びてきて、己の頬に触れたのを思わず心の中で実況中継してしまった。
「俺も――男のひとり、なんですがね?」
にやりと笑んだ口元はどこまでも妖艶だ。薬売りの掌が頬をすべり、輪郭をなぞり、髪を弄んでいるのを横目で見る。ふわりと風に香る花のにおいは甘く、けれど悪戯な空気を垣間見せる。――つまりは、そういうこと。
「からかって遊ぶには、俺は不適当だと思うけど?」
「・・それはまた、何ゆえに?」
「そりゃだって――俺は男で、兄ちゃんは兄ちゃんだから・・だよ」
「・・何を、」
言っている、と続くはずだった薬売りの言葉は、がしゃん、と彼の背後で弾けた音にさえぎられる。音の発信源に立っていたのは、手にした盆と茶を見事にひっくり返し、しかし声も出ないほど顔を真っ赤に染めた給仕の女の子。まさか、と薬売りの思考が現状に追いつくが早いかそれとも。
「・・っ、お、お楽しみのところを、申し訳ありませんでしたぁああ!」
その日、一組しか用意されていなかった布団はじゃんけんに勝った自分が使った。朝の出立がやたらと早かったのはきっと、店の人たちの視線が居たたまれなかったからに違いない。あらぬ誤解に下唇を噛んだ薬売りは酷く人間らしくて、なんだか少しホッとした。
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writing date 07.11.08 ~ 07.11.09 up date 07.11.10