怪拾遺 短編 其の二

命がけの冗談

とある宿の一室。ごりごりと乳鉢で何かをすりつぶしたり、量り取った何かを混ぜ合わせたりと、仕事に黙々と勤しむ薬売りの隣にごろりとうつ伏せになり、は読本を広げていた。薬売りは部屋を二つ借りようとしたのだが、それを「金が勿体無い!」と反論したのは自身である。

「・・・意味が分かって、言ってるんですかい?」

薬売りの中で自分という人間はどうも、とんでもない阿呆として捉えられているらしい。

「部屋代だって安くないんだし、俺は別に兄ちゃんと同じ部屋でいいよ!」
「・・・あの、ですね「おやまぁ、お兄さん思いのいい弟さんだねぇ」

兄弟として見られるのなら、それに甘えるまでだ。初めてそう勘違いされたときの衝撃とショックは未だ自分の中に根強く居残っているが、逆手にとろうと思えるほどには回復した。薬売りがあまりに年齢不詳なせいか、それとも実年齢よりも幾分か若く見られる自分の容姿のおかげか、顔の造りそのものは似ていないのだが追及を受けることはない。むしろこの「歳の離れた兄と弟」という設定はどうも女の人にウケがよく、最近ではこれを活用してなにかを少しおまけしてもらったりする日々だ。―――もちろん薬売りはそれにいい顔をしないけれど、どれだけ言ったところで従うようなタマではないことにどうやら諦めたらしい。はぁ、と思い切り溜息をついた薬売りはしかし何も言わず、呆れたような視線をくれただけだった。

――・・、いてっ」

不意に、ふくらはぎに感じたちくりという痛み。先端のものすごく尖ったものが、痛いとくすぐったいの狭間で肌を刺激する。本から意識を引き離し、は自身の足に視線を向ける。目に入った奇妙な物具が、自身の存在を主張するようにくるりと舞った。

「ちょ、何してんのお前。今忙しいんですー」

体をひねり、後ろを振り返って「しっしっ」と手で仰いだら・・・・やりやがった。やりやがったよこの天秤! 高く宙に舞ったかと思ったら、ある一点で留まりそして―――

「い・・ッ!」

ちくり、ではない。ぐさりだ。その鋭く尖った支えの部分で思い切り、体重・・といっていいのか甚だ疑問ではあるがとりあえず、その体重をのせて勢いよく刺したのだ、この天秤は! 痛みが足から脳天を駆け抜け、目の前で火花が散る。思わずそれまで読んでいた本を放り出し、足を丸めて、

「いってぇ・・ってああッ! どこまで読んだかわかんなくなった・・・・っ」

な、泣いてもいいですか。足が痛い、ズキズキ痛い、しかも今結構いい場面だったのに、栞挟んでない・・! じわりと目頭が熱くなって、けれど感じた冷たい視線に無理やり衝動を抑える。今ここで涙など見せてみろ、これまでの「呆れ」値の最高を更新してしまうのはほぼ間違いなく、しかも少なくとも今晩は延々とおちょくられるに決まっている。そんなの絶対ゴメンだ。

「・・言っておくが、あれは先程からずっと、の気を引こうとうろちょろしてましたぜ?」
「・・・え、ほんと?」

すぅ、と指の上に移動してきた天秤は、薬売りの言葉に同意を示すように大きく体を傾けた。

「あー・・ごめん。全然気付かなかった、ホラ、本読んでたし!」

天秤の前にずずいと読本を掲げても、しかしふいっとそっぽを向いてしまう。なんというかまるで「仕事と私、どっちが大切なの!?」と詰られている気分だ。基本的に、天秤は薬売りが用いるモノノ怪との距離を測る道具であるわけだから、嫌われるもなにもないはずなのだが、嫌われるとなるとかなり厄介である。今回は一つの天秤に襲われたわけだが、あの薬箱の中には数えるだけ時間の無駄なほどの天秤が控えていて――それらに襲われようものなら、最悪死んでしまう。無数の天秤に刺されてあの世逝きだなんて、そんな見たことも聞いたこともない死因はご免こうむりたい。「ごめんって。俺が悪かった、許してよー」と、一つの天秤に向かって頭を下げるは、事情を知らないものが見たらあの子大丈夫?な光景だ。しかし薬売りは勿論そんなことに頓着する様子はなく、僅かに口元を緩める。

「ところで、何を読んでいたんで? 随分と熱心な様子でしたが」
「薬箱に入ってたやつ」

薬草をすりつぶしていた薬売りの手が、ぴたりと止まった。

――・・ってのは冗談で、前の町で買ったんだー。滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』」

今売れてるらしいよ?、と本から顔を上げた瞬間、ヒュンッと耳元を風が掠めて動きが止まる。つぅ、と何かが頬を伝う感触に手を沿わせれば、指を彩る赤い液体―――頬の筋肉が、笑みを作ろうとしてひくりと歪む。

「・・ちょっと薬売り、これはなんの悪ふざけですか」
「いえ、ちょうどそこに蚊がいましてね・・逃してしまいましたか」
「大事なお札を、蚊をつぶすくらいで使うのは良くないと思います」
の頬に腫れ物が出来ることのほうが、俺にしてみたら一大事だ」
「ほぉ・・・傷はいいってか、傷は!」
「そう、ですね」

おかしい、絶対おかしい! 今自分に、そんなに引け目を感じなければならない理由はないはずだ。ああいう本を持ち歩いているのは薬売りで、それでちょっと冗談を言ったらコレだ。冗談を実力行使で万倍返しにするのは、絶対に理不尽だ! ・・・・今はとりあえず、懲りずに手を出す自分については棚上げしておく。

と、不意に存在を感じては顔を上げる。離れて仕事をしていたはずの薬売りがどうしてだが自分の目の前に居て、しかもそれはほんの鼻先10cmで、骨張った細くて長い指が己の頬に触れようとする5秒前。後ずさろうにも、薬売りの放つ魅力がそれをさせてくれない。奴の瞳は、逸らすにはあまりに綺麗すぎる。

「この程度の傷は、舐めれば治るもの・・・なんで、ね」

やばい、まずい、取って食われる! ヒィイイイ、と心の中では絶叫が響き渡っている。目の前の男をありったけの力で張り飛ばすか、もしくは全身全霊をもって場の脱出を図ろうと反射神経が働くが、頬に這わせられた奴の手がそれを許さない。ぎゅう、と思い切り目をつぶり、下唇を噛み締めて―――・・・。

「・・・・・ちょっと、何お前笑ってんの」
「いや、これは失礼・・っ」
「せめて笑いを止めてから言え」

くすくすと、肩を震わせて笑う薬売りなんて金輪際拝めないかもしれない。後の話の種にじっくり見させてもらおうかと考えなくもないが、それをもたらしたのが自分だと考えると非常に・・・そりゃもうとんでもなく腹立たしい。いやだがしかし、それよりもずっと―――恥ずかしくて死んでしまいたい。

「なかなかに初心な反応で」
「・・・うっさい」
「おや、頬が赤いようですが・・・風邪ですか、ね」
「かもねー。なんか目の前に、慢性的な色欲病をばら撒く諸悪の根源がいるし」
「では病がうつるといけない。この口は塞いじまうとしましょうか」
「ごめんなさいすみません口が過ぎました・・って近いです近すぎます、だから薬売り顔近いって!」


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writing date  07.11.11