喩えるなら陽炎。まるで手に届きそうなところにゆらりと現れ、けれど捕まえることを許さない現の夢。
喩えるなら稲妻。遍く畏怖される存在でありながら、豊穣を歌う神の使い。
喩えるなら水面に映る月。その掌に掬おうとすると、紛れて消える夜の足跡。
「――そんなに見つめられちゃあ、穴が開いちまう」
秋から冬へと移行しつつある夜は酷く静かだ。つい最近まで響いていた虫の声は細波が引くように消えて、あるのは降り注ぐ白い月光。とある宿屋の一室で、夜と月が描く水墨画の世界に背を向け、はただ薬売りを見ていた。室内に灯された行灯の光にぼんやりと浮かぶ、薬売りのその横顔をひたすらに。突拍子もない行動を突拍子もなくさらっとやってのける旅の同行者の、この理解しがたい行動に対して先に音を挙げたのは珍しく薬売りだった。それまで手にしていた得体の知れない丸薬を包み終え、彼はに顔を向ける。
「・・俺の顔に、何ぞついてるんですかい?」
「・・・・・・」
「流石に、居心地が悪いんですが、ね」
二人しかいない部屋に降りる沈黙。じじ、と行灯の火が立てる音すら耳についてしまいそうな時をしばらくして、「あー・・ごめん」とは言葉を落とした。不審を通り越して、不信すら滲ませつつあった薬売りの視線を感じながら、それまで座っていた窓際から離れて布団に潜り込む。ひんやりと夜気に冷えた布地に、身が震えた。
「・・窓を閉めてからに、しちゃあくれませんか」
「あ、ごめん。閉めてー、閉めてください薬売りさまー!」
もぞりと布団の中で体を丸め、頭のてっぺんまでずっぽり布団をかぶると、もう耳馴染みになった溜息が聞こえた。布団の隙間から様子を窺うと、どうやら立ち上がったらしい薬売りの動きに行灯の光がゆらりと揺れる。ぎし、と床が軋む音と障子が閉じられる音。ほぅ、と細く息を吐き出して、思考をたゆませる。けれど意識を睡魔に明け渡そうとしたとき、ぎしりと傍らで軋んだ床の音にそれは妨げられて。ぎょっとするより早く、頭まで被っていた布団をばさりと思い切り捲られた。温まりつつあった布団の中の空気が一目散に逃げていく。襲いくる夜気にぶるりと全身が硬直する。
「ちょ、寒! いきなり何すんだよもう!」
「・・・・・」
「何だよ、言いたいことあるならハッキリ「言いたい事があるのは俺じゃなくて、のほうだと・・思うんですがね」
ああ、見逃してくれる気はサラサラ無いと。まぁ確かに、突然わけのわからない行動を取ったのは自分のほうだし、それを問われるのは当たり前の範疇なのだけれど、それが薬売り相手だとどこか違う気がする。なんとなく、問い詰められないと思っていた。
「・・別に、なんでもない」
「ほぅ・・、今夜は眠らないおつもりで」
喋るまで寝かせないってことですか。薬売りを見上げる視線と、自分を見下ろす視線が交差して、一瞬火花を散らした気がした。瑠璃色の眼光は、差し込む月光よりも冷ややかさと鋭利さを伴って。放っておいてくれればいいのに、という言葉を舌の上にのせようとして、けれど生唾と一緒に飲み込む。
「・・・薬売りのことなんて、俺に分かるわけないじゃん、って思っただけ」
「・・いきなり何ですかい、それは」
「ねぇ、お兄さんの名前・・・本当はなんて言うの?」
数人の客に向かい、薬の効能の話かもしくは、最近どこぞで仕入れたらしい春画の話をしている薬売りから少し離れた時に呼び止められた。自分とおそらく同い年くらいだと思われる、三人の町娘はちらちらと自分の背後に居る薬売りに視線を投げながら小声で言葉を紡ぐ。まったく、どこまでも罪作りな男である。
「んー? “薬売り”だよ」
「もう、そういうのは名前って言わないのよ!」
まぁ確かにその通りである。知らないものは知らないのだが、兄弟だと偽っている今、兄の名前を知らないのはあまりに不自然が過ぎるだろう。こういうとき、いつも苦労させられるのは自分のほう。のらりくらりと質問をかわし続けるのも正直面倒くさい。やっぱり兄弟設定やめようかな、と思わなくもない今日この頃だ。
「お兄さん、どんな人なの?」
―――この質問に、答える言葉を知らなかった。薬売りの旅に同行するようになってそう長い時間が過ぎたわけではない。けれど、どんな人かと尋ねられて浮かぶ言葉が一つもないほど、短い付き合いでもない・・筈だ。十分すぎるほどおかしい現状。薬売りがどんな人なのか、むしろ教えて欲しいのは自分だと言ったなら、どんな顔をするだろう。
「――それで、そう言ったんですかい?」
「うん。狐につままれたような顔、ってのはきっと、ああいう顔のことを言うんだろうなと思ったね」
ようやく戻ってきた布団はもう、完全に冷たくなってしまっていた。冷たくなったそれを体に巻きつけながら枕元に膝を立てて座る薬売りを見上げて、ああなんて綺麗な人なんだろうと改めて思う。遠くにある行灯の火に顔の片側だけが照らされてできる陰影が、酷く蟲惑的に映る。お兄さんのこと、全然知らないのね、と冗談交じりに告げられた言葉にはきっと、本気の羨望があったのだろう。たとえあの人たちのなかで、自分は彼の弟だとしても。
「・・なぁ、」
「なんです?」
部屋の奥へと向けられていた薬売りの視線が、ちゃんと此方に向くのをまってから言葉を紡ぐ。
「薬売りって、どんな人? 教えてよ、今後の参考までに」
わずかに薬売りが目を剥いた。薬売りが面に出す感情は自分のそれと比べたら、それはもうものすごく少ない。すぅと刻まれる皺、動く眼球、ほんのわずかに歪む口元。それら全てを見逃さないよう、じぃと見つめる。自分ばかりが問い詰められるなんて、そんなのは不公平だ。
「・・そんなに見つめられちゃあ、穴が開いちまいますよ」
す、と白い手が降ってきて視界を覆った。人間らしい温もりと、けれどひんやりとした冷たさを併せ持つ掌が闇をもたらす。意識が溶かされていく。薬売りの低い声が子守唄となって世界に響く。
「の見たもの、感じたものが――そうなんじゃあ、ないですかね」
ああ、またはぐらかされた――思ううち、は静かに眠りにつく。
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010:陽炎稲妻水の月.....鴉の鉤爪 / ざっくばらんで雑多なお題(日本語編)
writing date 07.11.25 up date 07.12.06