怪拾遺 短編 其の四

胡蝶の夢

「・・・さむ」

朝がもたらす空気は清浄で、独特の清廉さを帯びていると思う。差し込んでくる朝日はてらいも無く部屋を照らす。金色の光に満ちようとしている室内をちらりと見回し、鼻先までを布団から出してその空気を肺に送り込む。布団の中に在った温もりと湿り気を帯びたものではない、その突き放すような冷ややかさを伴った空気が体に取り込まれると、ただそれだけで体温が低くなる気がする。もぞりと寝返りを打ったせいで出来た布団の隙間から、朝の空気が忍び入ってくる。ひんやりとしたそれが着崩れた夜着の間を縫って肌を撫でると、全身の筋肉が強張った。

「・・寒すぎる。無理」

季節はもう師走。坊主も走るこの時節、朝の冷え込みも一段と厳しくなったように思う。朝の到来を知らせるように、ちりんと可憐な音を鳴らす天秤に「無理無理、絶対ムリ!」と首を横に振ることで己の意思を伝えてまた、頭から布団に潜り込む。こうして避難しておかないと、今度こそ顔をブスリとやられる――そんな自分からしてみれば命の綱渡り、薬売りからしてみれば話の種にしかならない事態は、避けなければ。

けれど、自分がここで起きなければこの状態が真っ昼間まで続くこともまた、目に見えていた。薬売りは正直なところ、かなり寝汚い。近くにモノノ怪の気配でもあったら、真夜中だろうと早朝だろうとすぐさま目を覚まし、放っておいてくれればいいものを、モノノ怪の放つ不快感から逃れようと必死になって睡眠を貪ろうとする自分をわざわざ、ご丁寧にも頬を張って起こしてくれる。一声かけてからならまだ許せるものを、「ああ、すいません。なにぶん、急いでいたもので ね」といつも同じ台詞を悪びれもせず告げる。どうやらこれが、奴なりの最大限の謝罪の言葉ならしい・・・顔の造作にばかり栄養が行き届き、脳ミソの発達が遅れてしまったらしい薬売りに、誰か常識と言葉を教えてやってくれ。――いきなり顔を踏みつけられたり、鳩尾に薬箱を置かれたりするんじゃないかと気が気ではない日々はもう嫌だ。

薬売りと行動を共にすることになったその朝、ただひたすらに昏々と眠り続ける薬売りに「この人、実はもう死んでるんじゃないだろうか」という疑念を幾度か抱いたことは秘密である。が、そう思わせるほどに奴は起きない。そして苦労の果てに目を開けさせたとしても、意識が戻ってくるまでにまた時間がかかる。布団の上にのそりと起き上がり、虚空を見つめることしばし。時折思い出したように瞬きをしたり、髪を撫で付けたりして、そうしてようやく――・・「早いですね、」と言葉を零すのだ。

今朝もまた、同じことをしなければならないのかと溜息をつく。布団の上でぼんやりしている薬売りの見物料なら、結構取れるかもしれないと考えながら、けれど自分が起きる気がしない。寒い。布団から目までを覗かせ、隣の布団を見遣る。起きろ起きろ、起きてくれ! お前を起こすためだけに、朝餉の時刻より一時間早く起きなければならないなんて、理不尽極まりない仕事から私を解き放ってくれ。「・・なんで起こすんですか」とでも言いたげな目で、思い切り不機嫌そうな表情をされるのもまったくもって心外だ。昨日なんてその爪で引っ掻かれそうになって・・・うぅ、どうして自分ばかりがこんな目に!

じとりとした視線を背に受け続け、当たり前のように薬売りは起きる気配を見せない。これでいびきや歯軋り、寝言なんか言っていたら最高に笑えるのだが、奴は寝姿でもそのイメージを崩さない。纏められていない淡い飴色をした髪はゆるゆると波打って枕に流れ、自然と着崩れた着物の襟足からうなじが覗く。起きているときはまだしも寝ているときまで色気大放出だ。果てしなく情操教育に悪い。その垂れ流し状態の色気を少しばかり自分にも分けてくれ。半分とは言わない、三割でいい・・・・いや、一割でもいいから――とそこまで考えて、これ以上は自分が惨めになるだけだと気が付いた。泣きたい。今度宿を取るとき「姉です」とでも言ってみたいと思う。きっと何事もなく部屋を取れるに違いない。



「まったく、どうして起こしてくれなかったんですかい?」

ずんずんと大股で歩いていく薬売りに歩調を合わせるのがかなり苦しい。決して軽くない薬箱を背負っているはずなのに、それをほんのわずかも感じさせないのだから不思議だ。これから、このような薬売りにまつわる不思議を“薬売りマジック”と呼ぶことにしよう。

「職務怠慢、ですよ」
「いや、俺が起こさなきゃならないっていう規則があったわけじゃないし」

明らかに自分のほうが薬売りよりも多くの歩数を稼いでいるはずなのに、一向に追いつかないのはどうしてだ。むしろじわりじわりと距離が開いている気がする。おかげで歩いているのか小走りしているのかわからなくなってきた。――これも“薬売りマジック”か。・・・・脚の長さの違いが答えだなんて、絶対に認めない。

「おかげでもうこんな刻限・・・こりゃあ、次の街まで辿りつく前に、日が暮れちまう」
「・・・・えー、野宿ー?」
「誰のせいで、こうなったと?」
「ごめ・・・・・って違う、俺のせいじゃない! あっぶねー、今思わず謝っちゃうとこだったよ」

そう、あの後布団の中でぐずぐずしていたら、再び思考が微睡みに溶けて。どうしてああも二度寝というのは心地いいのだろう。とろとろとした睡眠に身を任せてふと気が付いたとき、もうあと二、三時間で太陽は一番高いところに届こうとする高さまで昇っていた。次の街は少し距離があり、一杯一杯歩けば野宿は免れるだろうという話を前もって聞いていただけに、サーと血の気が引いていく。今ここで薬売りを起こせばきっと今晩は野宿だ。それならむしろ、今は気付かなかったふりをして、夕方ごろ起こすことで滞在を長引かせてしまおうか――・・・ふっと脳裏をよぎった考えは、突如頭に轟いた声に掻き消された。


「下らんことを考えてないで、先へ進め。阿呆」


今この部屋には、この時間になってもまだ眠り続ける薬売りと自分、そして天秤しかいない。人の声など響くはずがなく、しかもこの声は空気を介して響いてきたものとは違う。直接脳髄に叩き込むような、こちらの意思などまるで意に介していない声が、圧倒的な力を伴って割り込んでくる。

「早くしろ。時は無い」

――何をコイツ、偉そうに。いきなり頭の中に入り込んできて、何様のつもりなのだろう。

「貴様に、知る必要はない」



――・・? どうか、したんですかい?」
「え、いや・・なんでもない」

思い出したらまた、腹が立ってきた。いきなりの阿呆呼ばわりは、いかに心の広い自分といえど許しがたい! 何事も無かったようにすぅと消えた力の残滓を追いながら、記憶を辿る。どこかで・・どこかで感じたことがある。出会ったことがある。明らかに、自分よりも数段階上位の力。決して手に届くことの無いその力は、どこかで相見えたことがあるはずだ。

「随分と、小難しい顔をして。皺が増えますよ」
「余計なお世話だ」
「これは、手厳しい」

くす、と唇の端を持ち上げた薬売りが、燃え立つような紅に染められていく。知る必要はない、と頭に声の記憶が木霊する。機会があったら教えてやろう。知らないものをそのままにしておくつもりはないと。

novel/next

098:胡蝶の夢.....鴉の鉤爪 / ざっくばらんで雑多なお題(日本語編)
writing date  07.11.23   up date  07.12.12