怪拾遺短編 其の五

とがなくてしす

ごぽり、と口から溢れる赤が、反射的に覆った手を濡らす。どろりと纏わりつくその鉄臭い液体に抱く感情は「鬱陶しい」。舌打ちが漏れそうになって、けれどそれを押し留めたのは腹の底からせり上がってくる更なる吐き気。咳き込んだ途端、また染み出してくる赤に我ながら血の気が多いと呆れる。宝珠から召喚した力、雀鴻が受けたダメージはそのままのダメージとして反映される。モノノ怪から力を集積し始めてまだそう日が経っていないせいか、この体にトレースされるダメージは決して小さくない。

「・・大丈夫じゃあ、ないようですね」

薬売りを見上げることが出来ない。目の前がぶれる。膝に力が入らない。思考が今にも意識を手放そうとしている。――けれど、は腕を持ち上げ、それで口を拭う。

「大丈夫。問題ない」

足手まといだけには、なりたくなかった。降ってくる溜息で心がつきんと痛む。無理をしてまで、薬売り相手に意地を張る意味はないことはわかっている。こういう態度が只でさえ少なそうな奴の愛想を尽きさせるのだろうし、後で叱られる種なのだとわかっている。けれどここで意地を張らなければ、己の使えなさを露呈するようで―――この先も全て、薬売りに任せてしまいそうな自分が怖い。

「しばらくそこで、休んでいろ」

なるべく早く、終わらせる――・・そんな声が聴こえた気がしたのは、自分の都合のいい幻聴だろうか。




目を開けたとき、視界に広がっていたのは見知らぬ天井。ぼんやりと、定まらない焦点をそのままに木目を数えているうちに、視覚以外の感覚が体の中に戻ってくる。ごりごりと何かをすりつぶす音と、鼻の粘膜を刺激する独特のにおい・・・・ゆっくりと首を動かして、きっと近くにあるだろう派手な着物を探す。

「ああ、目が覚めましたか」

起き上がろうと腹に力を込め、けれど半分まで体を起こしたときにやってきた眩暈が、体を布団に沈ませる。ぐゎんぐゎんとまるで耳元で太鼓を叩かれているような痛みが、心臓の鼓動と同じタイミングで頭を締め付ける。あまりの痛みに、声すら漏れなかった。

「あれだけ血を吐けば当然、ですよ。しばらくそうして横になってなさい」

薬売りの言葉に反駁する余地もなければ余力もない。無言でずるずると布団の中に這い戻れば、それを認めた薬売りは小さく溜息を漏らした後で仕事を再開させた。ごりごりという小さな音と衣擦れの音、ごそりと寝返りを打つ音だけが決して広くはない部屋に満ちる。再びの思考が、とろりと闇に溶けようとしたとき、それを留めたのは鴉の鳴き声。誘われるように視線をやれば、障子は燃えるような夕日に染め上げられていた。

「・・・俺、結局倒れたんだな」
「血まみれの貴女を抱えて戻ってくるのには、手間がかかった」
――・・ごめん」
「と、この宿のご主人が」
「・・・・後でお礼を言いに行ってきます」

――・・きっと。自分を運んでくれたのはきっと、薬売りなのだろうなと、ぼんやり思った。

「これを」
「ん?」

す、と枕元に差し出されたのは薬包紙の上にこんもりと詰まれた白い粉。布団から起き上がることはせず、のそりと寝返りを打って枕に顎を埋める。顔を近づけて臭いをかぎ、あからさまに苦そうな臭いに表情が歪んだ。ちらりと見上げた先で、正座をした薬売りが自分の行動を見逃すまいと見張っているような気がするのは考えすぎか。

「・・・これ、もしかして飲むの?」
「ええ」
「本当に?」
「俺が嘘をつかねばならぬ理由がわからない」

全くもってその通りである。でもなぁ、なんかものすごく苦そうなんだよなぁ・・・と口の中で呟いたら、降ってくるのはおなじみの溜息。

「貴女の力は、貴女の体調や精神状態に左右される。万全にしておいて貰わねば、困る」
「の、飲むよ!ちゃんと飲みます!」

ゆっくりと、時間をかけて起き上がる。同じ轍は二度踏みたくない。けれどやはりズキンとこめかみを右から左へ貫く痛みが走りぬけ、視界が揺らぐ。思考が白一色に塗りつぶされる。前のめりに崩れようとしたとき、やわらかく体が受け止められた。伸ばされた腕をゆっくりと辿り、見上げた先で薬売りはいつもと変わらない口調で言葉を紡ぐ。

「・・意地を張るから、こうなる」
「ごめん、なさい」
「あれでは、血がどれだけあっても足りません・・よ?」
――・・ごめん・・・」

自分の体を支える腕・・・細腕に見えて、けれど相応の力を内包する薬売りの腕をきゅうと握る。薬売りの口から漏れる小さな吐息が空気を震わせ、はさらに身を縮こまらせる。

「そう思うのなら、飲んでください」
「・・・はひ」

受け取った薬包紙を口に添え、息を止めて一気に流し込む。気管に張り付いてむせそうになるのをグッとこらえ、口を手で覆う。差し出された水の入った湯飲みを、薬売りの手から掻っ攫ってごくごく飲み干した。粉が口に入った状態で咳などしたら、体を支えてくれている薬売りが粉まみれになるのは目に見えている。――それはそれでかなり面白そうだが、後が怖いのでやめておく。

「げほ・・ッ、あーっ苦い! うぅ、口の中が気持ち悪いよう」
「仕方ありませんねぇ・・・口直し、ですよ」
「!」

口を開けて、と告げられた言葉のまま、ぱかりと開けた口に何かが放り込まれた。驚いて手で押さえ、そして口内に広がるほのかな甘さに思わず表情がとろりと緩む。舌先でそれをころりと転がせば、ほろほろと崩れていく甘さ。名残惜しむかのように、その甘みを舌で追う。

「今の、なに?」
「おや、お気に召したようですね。・・金平糖、というんですよ」
「・・・もう一個「残念、品切れです」

む、と表情を歪めるに笑みを漏らし、薬売りは彼女の額にその掌を押し当てた。わずかにひんやりとしたその手はなんとも心地いい。はすぅ、と肩の力を解く。

「高価、なんですよ・・これは」
「・・なんで持ってたんだ?」
「お客さんが、少し分けてくださったんで。先程俺も頂いたから、もう残っていないんですがね」
「なんだ、そっかぁ・・・」

残念、と笑うの額から薬売りの掌がすべり、ぽんぽんと頭に触れる薬売りの手。口の中に広がる金平糖の甘さよりも、ずっと。ずっとずっと、今この男の纏う空気が丸みを帯びている気がしてどうにもこそばゆい。まるで浮世絵から現れてきたような、誰かが見た夢の世界から抜け出てきたようなこの薬売りに、たとえほんの僅かでも気遣われること。はそれを素直に享受できない。「迷惑かけて、ごめん・・・・」と言おうとして、今度こそぐらりと視界が揺れた。すぅ、と思考が闇にほどけていくのを感じながら、耳元で震えた空気が意識を溶かす。

「おやすみなさい、

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024:とがなくてしす.....鴉の鉤爪 / ざっくばらんで雑多なお題(日本語編)
writing date  07.11.17   up date  07.12.22