「――なぁ、薬売り」
「なんですかい?」
「・・俺を買ってくれる人、いるかな」
それまで何事もなく並んで歩いていたのだが、突然薬売りがその足を止めた。数歩先を行き、そしてようやくそのことに気が付いたはきょとんと後ろを振り返る。
「どしたの、近くにモノノ怪いるとか?」
「いや、そうではなく―――・・今、なんと言った?」
「“俺を買ってくれる人、いるかな”?」
朱色で縁取られた薬売りの目が、すぅと細められ眉間に深い皺が刻まれる。顔の造りのいい人間、というのは何かしらの迫力を持っていて、それは勿論薬売りにも当てはまる・・というか奴は存在自体が迫力でできていると言っても過言ではないのだが、とりあえずそれは置いといて。そういう人間は、小さな表情の変化による影響がかなり大きい。例えばこの薬売りは、その青に彩られた唇をほんの少し上向きにするだけで一晩の宿を借り受けることが出来る・・・この場合、自分は完全にお邪魔虫であるから、彼らの収まった部屋から一番遠い部屋で小さくなっているのだけれど。
「・・・突然何を、言い出すんです?」
わかりにくいのは、感情の変化に伴う表情の変化だ。これらの類のものは、こうして薬売りの旅に同行するにつれて徐々に分かってきたものが多く、初めて出会う人間が彼の感情の機微にそこまで聡くなれるかと言うと、それはまた少し別の話で。モノノ怪と相対している時を除いて、ほとんど声を荒げたりしない薬売りは言葉ではなく、目の動きや顔の皺で小さな合図を発している。・・・これを見逃すとものすごく厄介であるということを、は最近学んだ。
「いやだってさ、俺・・全然稼いでないし」
「それが、どうやったらそんな話になるんで?」
「出来ること、ないかなって。旅芸人の一座とかに飛び入りとかで入ったら、俺の力を金に出来るんじゃないかなぁって思ったんだけど」
ああなんだ、そういうこと・・・ですか――と呟いて、ゆるりとその足取りを再開させる薬売り。半歩先を歩く薬売りを、覗き込むように見上げる。・・・機嫌は多少、よくなったらしい。
「なんだよ、“そういうこと”って。何考えてたんですかー」
「いえ、俺はてっきり、色子にでもなるつもりかと」
色子――それが一体なんなのか、知らなくても決して親に聞いてはならない。
「・・・へぇ? 俺のことを一体どう思ってるのかよく分かるな、この色魔」
「ほう・・この口はどうやら、余程塞いでもらいたいものと見える」
日々の宿代や飲食代・・・それらは全て薬売りが担っている。薬売りが、“薬売り”としての仕事で銭を稼いでいるとき、自分はといえば彼の後ろでそれを眺めているほかない。薬売りはそのことについて何も言わないけれど、でもだからこそ申し訳なくてはいつも身を小さくする。
「モノノ怪を斬るときには、の力を借りてますぜ?」
「・・嘘つき。俺だって、役に立ってるか立ってないかくらい、わかるよ」
薬売りがこの力を必要としてなどいないことは、理解している。彼が必要としているのは力に引き寄せられる「モノノ怪」で、自分が役に立つか立たないかなど大した問題ではないことも承知している。わかっている――薬売りは彼自身の力でもって求めるものを得られるが、自分は違うのだと。薬売りをこれ以上なく必要としているのは、“力”のない自分なのだ。
「――そいつぁ、の“真”でしょう」
「え?」
見上げた横顔に隙はなく、読み取れる感情はほとんどない。だからとりあえず、怒ってはいないらしい。
「俺の“真”との“真”は違うということ・・ですよ」
「・・? よく、わかんない」
これじゃあまるで駄々っ子のようだ、とは自分を嗤う。事の始まりは自分も銭を稼ぎたいという考えだったのに、今はただ薬売りを困らせているだけ―――・・、とそこまで考えてはたと気がつく。そうか、自分は薬売りの役に立ちたいと思っているのか。
「がどう思っているかなぞ、知ったことではない。だが俺は、の力を必要としている。・・・・それでは不満――ですか、ね」
不満・・・なのだろうか。よくわからない。薬売りの静かな言葉が乾いた大地に染み込む雨のように、じわりと心に入り込む。けれど―――
「・・そう気に病みなさんな。役に立つ立たないは、本人が決めることじゃあない」
「そう・・かな」
「そうです」
ちらりと、横目で薬売りを窺う。前に向けられた瞳は真正面に向けられていて、こちらに注意を払っている様子はない。不気味なほどに白い肌に、鮮やかな朱色の隈取。見上げた横顔はまるで造り物のように整っていて、今更ながらその隣を歩いている自分の腹の据わりようを噛み締めたりもするのだが、そんなことをこの男が気に留めるわけもない。す、と歩みを速めた薬売りはの前に立ち止まり、きょとんとする彼女を鋭い視線で縫いとめた。
「・・・・先刻の一件で、―――血を吐きましたね?」
「!」
ぎょっと目を剥き、回れ右して脱走を図り・・・・着物の襟首をつかまれて息が詰まった。前方斜め45度に突き出した右手が宙をかき、空を掴む。あれ、目の前が白く霞むのはなんで・・・?
「血を吐いたときには俺に言うようにと、散々言って聞かせたはずですが」
表情はそれこそ眉間に刻まれた皺の一本ほどしか普段と違わないのに、そこから醸し出される怒気は空恐ろしいほどだ。鬼だ、目の前に鬼がいる。もしも自分に、感情を表す犬の耳と尻尾があったなら。きっと耳はぺったり頭に貼り付いていて、尚且つ尻尾は腹に巻き込んでいるに違いない。ここまできたら「くぅん」と鳴いてみせようか。
「――・・話を、聞いていますか」
「はい、聞いてますホントすいません」
はぁ、と吐き出される溜息には慣れっこだが、胸の奥が罪悪感でちくりと痛む。
「貴女の力は、その体調に左右される。知らないとは、言わせませんぜ?」
「わ、わかってるよ! ――でもその、なんていうか・・」
「なんていうか――なんです?」
舌の上まで来て飲み干した言葉を、言いよどんだ一言を見逃してくれる気はないらしい。立ちふさがった薬売りの纏う空気が、射殺さんとするほどの鋭い視線が、逃げ道を全て潰していく。背水の陣、窮鼠猫を噛む――こんな言葉は当てはまらない。圧倒的な戦力差を持つ相手が、付け込む隙など見せるはずがないのだから。反撃の糸口を見つける暇もなく、は自身が今、まな板の 鰯 鯉となっていることを自覚した。
「だって、薬・・・・・苦いんだもん」
この一言が、薬売り的「呆れ」値の最高値を塗り替えたことは、言うまでもない。
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053:夜闇の贖い.....鴉の鉤爪 / ざっくばらんで雑多なお題(日本語編)
writing date 07.11.12 up date 08.01.06