第3話
街並みや人の流れをぼんやり見ながら、は歩く。高杉と別れてしばらくあそこでぼーっとした後、「よし、帰るか」とわざと声に出しては立ち上がった。帰る場所―――の帰る世界は確かにここではない。はこの世界から消える。いつになるかわからないけれど、いつかきっとくるその日。この世界からいなくなるという事実に、以上に傷ついている彼らに迷いは見せられないと思う。今ある日常を楽しんで、一生懸命笑って泣いて怒って・・・・そうしてこの世界から消える瞬間に心の底から笑えるように。
そう思えたら、不意に世界が明るくなった気がした。今の今まで快晴であることに気付かなかった自分の余裕のなさを自覚して、は笑う。きっと高杉にはそのことを見抜かれていたのだろうな、と思う。あいつ、エスパーだから。・・・そう、エスパーだからしょうがないのだ。高杉には銀時たちには言えない後悔の念や迷いを口にしてもいいのだ。だって高杉はが口にするよりもはやく、それを理解しているから。
「あ」
「お」
通りを曲がり、そこに見慣れた姿を見つけたがぽかんとした表情で一音だけ言葉を零せば、その相手も驚いたように声を上げた。
「銀さん、え・・・・どしたの、その犬」
銀時の握るリードにつながれているのは、その背に乗って移動できるような巨大犬ではない普通サイズの犬。少し前、CMで散々見かけたチワワである。しゃがんでよくよく見てみれば、首輪にはとてつもなく大きくて透き通った輝きを放つ石が散りばめられているし、毛並みもつややかで見慣れた巨大犬の毛並みとは大きくかけ離れている。リードを持つ銀時とまったく釣り合わない。
「依頼だ、依頼。今日一日だけ面倒見てくれってよ」
そういえば、とは万事屋を出てきたときに電話が鳴っていたことを思い出す。どうやらあれが仕事の依頼だったらしい。
「で、ちゃんと散歩させてんの? えらくマジメに仕事してんじゃん」
「俺はいつだってマジメだっつの。・・・定春と相性最悪なんだよ、コイツ」
依頼人が連れてきた犬はオス。小さいなりをしているくせに度胸だけは一人前、そして頭の中身は空っぽなようで、定春に真っ向から挑もうとした。それに慌てたのは周りの人間である。定春はあれで結構人の言っていることを理解しているから、売られたケンカを買おうとはしないがそれでも、威嚇のつもりでがぶりとやったらそれだけでかなりの金が飛ぶ。金を得るために受けた依頼で、犬に払う慰謝料など万事屋のどこを探しても見当たらない。仕方なく銀時は定春にケンカを売り続けるバカ犬を連れて、街へと繰り出したのだ。
「、お前どーせヒマだろ? だったら付き合えや」
「はいはい、言うと思いましたー」
おら、と渡されたリードを握って、は銀時の半歩後ろを歩く。気だるげに、いかにも面倒くさそうに歩く銀時だが、はそんな彼の背中が嫌いではない。「いい男ってのは、背中で物を語るもんだ」と言っていたのは銀時自身だったか、それとも別の誰かだったか。覚えていないけれど、は銀時の背中ほど雄弁に物を語るものはないと思う。
「言いたくねェなら言わなくていい。聞き出そうなんて、野暮な真似はしねェよ。・・・・少し待ってな、」
彼にはこう言えるだけの強さがある。誰にも、何者にも揺るがされることのないその強さは、紛うことなく周囲の人間への優しさに直結していて、だからその優しさも決して揺るがない。強い人だと思う。本当は何があったのかきっと聞きたくて知りたかったのだろうと思うけれど、「言わなくていい」とそれがたとえ虚勢だったとしても言える強さ。
「(・・・・・一番覚悟が足りなかったのは、俺か・・)」
川沿いの土手をのんびりと歩く。空の一番高いところから下り始めた太陽は暖かく、涼しげな風がと銀時を追い越していく。こんないい天気は高杉には似合わない、どちらかというと曇天・・あるいは雷雨が似合う、などと本人を前にして口に出せないことをツラツラ考えていたは、急に銀時が立ち止まって土手の芝生にごろりと横になるのを止められなかった。
「ったく、嫌味なくらいいい天気だなァオイ」
「・・・・寝るなよ。俺、起こさないからな」
へーへー、と惰性だけで返事をした銀時を横目で睨みながら、けれども隣に座る。すれ違った犬すべてにケンカを売りつけたバカ犬を胸に抱いて、流れる川を眺める。がこの世界をぶち壊そうとしているテロリストと会っていても、目に入る風景はいつもと変わらない穏やかさで移ろっていくし、例えばそれはがこの世界から消えても変わらないのだろうと思う。
「なァ、お前さ・・・・・なんで言わなかったんだよ」 何を、だなんて聞く必要はどこにもなかった。
「・・・銀さんがコツコツ貯めてた板チョコ、3日に1回ぐらいの頻度で抜いてたから、怒られるかなって」
「どーりでなかなか貯まらねぇはずだ・・・・・ってオイィイ! 今の雰囲気でそのボケ必要か!? 絶対いらねぇだろソレ、ってかお前マジふざけんなよ。必死にやりくりして貯めてんだぞあのチョコ!」
自信があった。この世界の住人とは深く関わらず、のらりくらりと綱渡りのように毎日を渡り歩いて宝珠を見つけ出し、いつの間にかもとの世界に戻る自信が。いつになるのかわからないけれど自分は確実にこの世界から消える日が来るのだから、必要以上に関わらないで過ごしていけると。けれど、その欺瞞をこの世界で保っていられたのは空を急降下している間だけで、万事屋の屋根を突き破って「ぇーと、こんにちは?」と一言発したときにはすでに消え失せていた。運命――自分のこれからが決まっているものだなんて考えたことも、それを認めるつもりもには毛頭ない。けれどその言葉以外に言い当てられる言葉は存在せず、この広い世界に飛ばされて、そして万事屋へとまっすぐに落ちてきたのは運命なのかもしれないと思う。そんな運命なら、あってもいいかもしれないと。
「居心地よすぎるんだもんなー、ホントさぁ」
自分に科せられた制限を忘れたことなど1秒たりともない。けれど、忘れたいと思ったことなら山ほどある。必要以上に関わらずに、などと考えていた自分の甘さは次から次へと覆されて、ふと気が付いたら皆の中に混じって笑っているのが当たり前になっていた。今更そこから抜け出そうなんて考えつかないくらい、そこは居心地がよくて楽しくて幸せで・・・はその事実に気が付くのが遅すぎた。今更「自分はいつか元の世界に戻るんだ」などと言うことも出来なければ、今いる場所から去ることも出来なかった。無様な、酷すぎて笑うことすらできない己の半端な覚悟を、今はようやく噛み締める。中途半端な覚悟という名の矛が向かう先は自分ではなく、周囲の人間なのだと。血を流して苦しむ様子を見てはようやく気付くのだ。
「ごめん。・・・・今までずっと、黙ってて」
そう静かに呟いて、それまで川原にやっていた目を銀時に戻せば、空を見ているだろうと思っていた彼の瞳とかち合って。そうして視線を絡ませること数十秒。“・・ったく、しょーがねぇなァ”という低い呟きが耳に届くや否や、の視界を覆い隠すのは銀時の着物。を包むのは甘い匂い。背中に回された彼の手が、まるで子供をあやすようにぽんぽんと頭に触れてようやく、は銀時に抱き締められていることを理解する。
「んな今にも泣きそうな顔して謝ってんじゃねー。怒れねェだろうが」
低く、小さな声がやたらとに響く。それが銀時の腕に包まれているせいなのか、それとも自分の心に響いたからなのか、今のにはわからない。ただひたすらに、居心地が良かった。
「・・・そんな泣きそうな顔してるかなー、俺」
「おー、そりゃもうヒデェ顔してんぞ」
「マジか。――・・じゃあ、もう少しだけ・・・あと少しだけ、このままで。それで、俺の顔隠してくれる?」
のその言葉に銀時はわずかに目を見張り、そうして緩やかに笑った。自分の胸に押し付けるように、彼女の頭に回した腕に力を込めて。
「任せとけ」
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