工学部のクールビューティ、氷の女王、清冽の騎士――彼の通う大学で、ひそかに語られるその通称からするとまったく考えられないことではあるが、これには原因がある。今日提出のレポートが思ったよりはるかに難解かつ難題で、ただでさえ少なめな睡眠時間がここ最近さらに削られていたこと。そして提出期限の今日が金曜の午後であったこと、この週末は完全なフリーであること。待ち合わせ場所は爽やかな薫風の舞い込む涼しい木陰で、待ち合わせ時間はとうに三十分を超えていること。・・・『ごめん、実験が思ったより長引いた。遅れる』 という簡潔なメールがティエリアの携帯に舞い込んで二十分と少し、木陰で読みかけの小説を広げていた彼の意識が揺らぐのも仕方のない話である。

涼風にティエリアの紫苑が揺れる、ベンチに足を組んで座り、腕を組んでじっとまぶたを閉じている彼は傍から見ると何事かを真剣に考え込んでいるようにも見えた。太い木の幹に背中を預けながらも、ぴんと背筋が伸びているあたりに彼の人となりがにじんでいる。その前を通り過ぎる女子中高生のグループが黄色い悲鳴をあげるのも、その人形のように整いすぎた容姿からいろいろと勘違いした男子学生が思わず足を止めてしまうのも道理だろう、もちろんティエリアにそんな自覚は露ほどもなかったが。

あたたかな泥に埋まっているような心地よいまどろみの中で、それでもティエリアは待ち人を待つ。とりあえず連絡だけでもしておけば、謝られさえすれ、待ち合わせ場所を後にしたところで文句を言われる筋合いなどないはずだ。とろりと弛んだ意識の水面でティエリアの耳は音を拾う、近づいてくる足音、自転車のタイヤが地面を踏みしめていく音を聞きながら、小さな期待と小さな落胆を幾度となく繰り返しながら。

下らない、と思う。なんて不毛で、意味の無い時間なのだろうと。薄く形のよいくちびるに浮かんだ自嘲の影、それでもここに自分を縛りつけるものが何なのかについて、ティエリアはもう白旗を掲げていた。認めるも認めざるもない、気がついたらそこに巣食い、深く根を張っていた厄介極まりない病巣。これが一体どういう類のものなのか、・・これが一体どれだけ傲慢なエゴイズムなのかは理解している。

あれはきっと嗤うだろう、こんなにも無様な僕を。

「・・っはぁ、はぁ・・・・、ティエリア・・っまだいた・・・」

ざり、とスニーカーの裏で地面が音を立てた。乱れた息を落ち着かせるように大きく息をついたそれは、先とは一変した明るい声を響かせる。

「っごめん、ティエリア! もっと早く上がれる予定だったんだけどさァ、ほんっとスンマセン」
「・・・・・・え、無視ですか、シカトですかティエリアさま? なに、土下座でもする?」

思わず、君にプライドは無いのかと口を挟みそうになってしまった。

「・・・・もしかしてティエリアさま・・寝て、る・・・・・?」

存外、耳元で呟かれた言葉にティエリアの意識はゆるやかな覚醒へ導かれる。とろりとした眠気がふるい落とされて、体の中心でまるくなっていた思考が指先までするりと馴染んでいく。ティエリアが深くゆっくりとした呼吸を維持したまま目を開けなかったのに大した理由は無かった、これだけ待たされたのだから少しくらい復讐してやっても罰は当たるまい。ちょっとした “イタズラ” だ、生憎、無表情を貫くことには慣れている。

「ちょ、マジ? ほんと寝てんの? ・・・うーあ、何だよそれぇ・・・・・」

周囲の空気がフッと揺れる、目を閉じているティエリアにその様子は確認できないが、聞こえてくる声には苦々しさとかすかな苛立ちがにじんでいた。追いかけてくる盛大なため息は止まることを知らず、次から次へと積み上げられていく。

「・・・・遠くからティエリア確認したときの、あのかんどーを返せコノヤロー・・」

知ったことか。ティエリアがそう胸のうちで吐き捨てるのと同時に、ベンチがぎし、と軋んだ。はぁぁ、とまたもうひとつ重ねられるため息、隣から流れてくる馴染みのない空気。――普段、ティエリアの怒りを柳の如くやり過ごしてしまうそれの、首の後ろをチリチリと刺すような苛立ちが空気を介して伝わってくる。

「ああヤダヤダ、美少年ってのは居眠りこいてても美少年ですね当たり前ですけど! ちっ、寝てる間におでこに 肉 とか書かれたことないからこんな堂々と寝てられるんでしょーね、まぶたに目ェ書かれたことないからできるんでしょーね! ・・・・くっそ・・、ひとがここまでどんだけ、」

そこでぐっと言葉を飲み込んだらしいそれは、吐き捨てるように舌を打った。

「・・・・・・ッ、くそ・・」

通り過ぎていく風が言葉をさらっていく。苛立ちを押し殺したような、何かに耐えているような声音で呟かれたそれはすぐさま、散り散りになって空気に溶けた。それはティエリアにとってはじめて聞く声音で、知らず息が詰まるほど切実な。自嘲するように漏れたため息が、かすかに残った言葉の残骸をすべて押し流していく。

「・・・大体、眠ってんのになんでこんな背筋ピーンと伸びてるわけ? もっと寝やすそうな態勢探せっつーの」

閉じたまぶたの上をヒラヒラ動く影、目を閉じていても感じるその鬱陶しさにティエリアは思わず眉根を寄せた。

「知りませんよー? こんなところで寝こけて、誰かに襲われても」
「・・・まァ、そんな勇者がいたら是非会ってみたいもんだけどさ、」

「・・・・・・・あー・・ティエリア、ほんとに寝てるんだよ・・な?」

まぶたの上にフッと落ちた影を感じて、ティエリアは静かに息を呑む。彼がほとんど反射的にあごを引き、重心を後ろに傾けたとして誰に文句が言えただろう、基本的に目の前のバカは他人と精神的な距離感を保とうとするくせ、他人との接触を躊躇わないのだ。風に揺れる紫苑がティエリアのまぶたをくすぐる、むず痒さを堪えながら、それでもティエリアは微動だにしなかった。今の彼は、仏像・石仏の類と張り合える。

細く長く、ゆるゆると吐き出されたため息ににじむ安堵の色。再びベンチが小さく軋み、砂利の擦れ合う音が届く。


―――・・ありがとう。待っててくれて」
「たぶん・・・・・・もうすぐ、追いつく」

だから、

「もすこし・・待ってて」


不意に。これはこれだけが出来うる響きでもって音を紡ぐ。ニヤニヤとした笑みを蓄えた口で、思考ではなく反射で返す声で、同性を彷彿とさせるセリフの選び方で、その言葉が持ちえた誠実を忠実に再現する。言葉のやわらかさや丸み、温かさなどではない。我を押し付ける傲慢を覆い隠すほどの誠実を、閉じた世界で薄目を開け、膝を抱える腕をほんのわずかに緩めながら。

オチテシマエ、と思う。

「・・・・・・・あー・・ティエリア、ほんとのほんとに寝てるんだよ・・な?」

次の瞬間、ティエリアの耳に届いたのは―――携帯のシャッター音だった。いかにも電子的で神経を逆撫でするその音に、ティエリアの思考はスタートダッシュをしそこなう。そしてその一瞬の判断ミスが彼女を助長させ、彼の不機嫌を誘導した。

「・・むふ、ティエリアの寝顔とかこれいくらで売れんだろ? レア感を出すためにちょっと出し惜しみすっかな・・、でもこんなチャンスいつくるかわかんないしィ、いま撮れるだけ撮っとこー・・・・・・・・・・お、おはようございますティエリアさま今日もいいお天気ですねところでわたしは今日ちょっくら用事があるので、」
「折るぞ」
「すんませんでした」

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writing date 090620  up date 090626