帰宅したときに感じる、他人がそこに息づいている気配。その 煩わしさ に慣れたのはいつのことだったろう、鍵を差し込みながらジェイドは考える。ジェイドの大学進学と時を同じくして、すこし離れたところへ引っ越した養父母からそのまま借り受けた彼の自宅には、いまや彼の養う(といっても、修士二年目にあるため金銭的な意味で養っているのはジェイドではないわけだが)子どもの気配が何よりも一番色濃い。元々子どもになど、他人になど興味の無いジェイドにとってその存在はまったく突然変異のようなものだ。この変異は彼を殺すのか、それとも生かすのか――結論はまだ出ていない。
廊下の先に続いているリビングから、煌々とした明かりとテレビの音が漏れている。ジェイドは自身の腕時計をチラと見遣り、やれやれとでも言いたげに首をすくめた。時計の針が示すのは夜10時過ぎ、子どもは・・特に遊びたい盛りのやんちゃで無鉄砲な小学三年生ならとっくにベッドの中で夢を見ているべき時間である。
案の定、というべきか。呆れたようなため息をつくジェイドの眼下には、ソファに丸くなったがすぴすぴと小さな寝息を立てていた。両腕で膝を抱え込み、まるで胎児のような態勢で眠る子どもの体が、ゆるやかな寝息と共に膨らんだり縮んだりを繰り返す。
「・・・ここで眠るのはやめるようにと、何度言わせれば気が済むんでしょうねぇ」
夕食後、テレビを見ているうちにいよいよ眠気に耐えられなくなって、というのがわかりやすい上に正しい事の経緯なのだろうが――・・ジェイドはメガネの奥の深紅をわずかに眇める。
は、寝ようとするところに光や他人の気配があるときちんと休むことが出来ない。眠れたとしても非常に眠りが浅く、小さな物音ですぐ目を覚ましてしまう。・・ジェイドがその “他人” という括りから外れて数年、もしここで眠るのとなりに腰掛けたのがジェイドでなかったら、は弾かれるように体を起こしたに違いない。どれだけ健やかな寝顔を晒していようと、この状態では本当の意味で休めない、自身そのことは十分自覚しているはずなのだが。
「・・・・・・私が、そうさせているんでしょうねぇ」
ふ、と弛んだ口元から言葉がこぼれ、夜のしじまに溶けていく。言葉が更なる自覚を促し、小さな疼きにジェイドはその白皙をほんのわずか歪めた。小学校に上がり、友達と同じくらい敵も量産している子どもの世界は以前に比べてぐんと広がったはずだ、しかしそれでも、この子どもの一番中心は。
「・・んー・・・・・・あ、じぇいど・・」
彼の指先が、ちいさな額に張り付いた髪をよけようとしたときだった。何に促されるでもなく、ふっつりと開かれたまぶたの向こうに深い夜のような漆黒が姿を覗かせる。夜、窓ガラスがあたかも鏡のように姿を映し出すように、とろりと溶けた瞳に子どもをのぞきこむ自身が映る。ゆっくりとして緩慢なまばたきを何度か繰り返したはやがて、ひどく丁寧に言葉を紡いだ。
「・・・・ん・・おかえり、ジェイド」
「――・・ええ、ただいま戻りました」
触れる指先に、子どもはほにゃりと表情をほころばせる。子猫のように目を細め、まなじりを下げて。
「夕飯はきちんと食べましたか?」
「うん、さっきまでピオニー来てくれてたし」
ふっと首をめぐらせてダイニングテーブルを遠くに見遣れば、メモらしき白い紙が夜風にはたはた揺れている。バカでかい文字で書かれたいくつかの言葉と、ご丁寧に紙の端に書かれたイラストがジェイドの機嫌を底上げするはずもなく、メガネの奥で瞳が鋭く眇められた。纏う空気がゆらりと揺れる。
「・・・・・・・・・まったく、あのひとは・・」
来たなら来たで連絡のひとつくらい寄越すべきだと思うのだが。付け加えるなら、いい年こいた大人が事後承諾を推し進めて本当にかまわないとでも思っているのだろうか。隠そうとしないジェイドのため息に、子どもは不安げに眉根を寄せた。でも、と言い出しそうな口を視線で縫いとめ、ジェイドはその白皙に苦笑を浮かべる。――まったく、こうしてこの子どもにかばわれていることを知ったら、あの悪友はどれだけ涙を流して喜ぶだろう。
「怒っているわけじゃありません。・・・・ただ、ちょっと呆れているだけで」
「・・・・・・・・・・・・・」
「それより、私に何か言わなければならないことがあるのでは?」
子どもの細い喉がこくりと上下する、反射的に瞳を伏せたはその場で両膝を抱え、体育座りで小さくなった。
「・・ごめんなさい、こっちでねてた・・・」
怒られる原因は口にしても、決してその理由を言わない。“ジェイドの帰宅を待っていた” と、この子どもが口にしたのは最初の一回だけ、それ以来は謝りこそすれ、どうしてここで眠ってしまったのかについて決して触れなくなった。『私のことは待たずに、先に寝ていてください。朝起きられないと困るでしょう・・も、私も』――そう告げたときの、子どもの凍りついたような表情をジェイドはまだ忘れていない。
この子どもが恐れているのは、睡眠時間が短くなることでも、朝起きられないことでもない。
「・・わかっているのならいいとしましょう。ですが、私がシャワーを浴び終わるまでに部屋で休んでいること・・・いいですね?」
「・・ん、」
「今日あったことは、明日の朝にでも聞かせてください」
「ん、わかった。・・おやすみなさい」
ふわ、と伸びてくる細い二本の腕を自身の首に絡ませて、ジェイドは子どもの小さな背中をゆるゆるとさすってやった。どうやらまだ半分以上寝ぼけているらしい子どもの高い体温が、ジェイドの腕の中に溶けていく。・・さて、こんなに “甘えた” なのはどのくらいぶりでしょうねぇ。鼻腔をくすぐる太陽の匂いに、ジェイドは喉の奥でフッと笑みをかみ殺す。
「はい、おやすみなさい」
細くあけた扉から差し込んだ光が、部屋に満ちていた闇を掻き分ける。ジェイドはそのしんとした静寂に満ちた部屋に長身を滑り込ませた、後ろ手に扉を閉めて光の侵入を拒む。子どもの部屋を支配する暗闇は、そのくせどこか柔らかい。不思議なあたたかさを伴いながら、部屋の中をとろりとろりと流れている。
ベッドの縁に腰掛けたジェイドは、まるで子猫のようにまあるくなって眠るを見下ろして静かに息をついた、約束どおりきちんと休んでくれているらしい。誘われるように伸びた指先で子どものふくふくした頬をなでる、曲線ばかりが集まってできた輪郭をそっとなぞり、夜色の髪を梳いた。――ジェイドはくつりと自嘲の笑みを漏らす、この子どもの “他人” の括りから外れている自分自身を確認して、わずかでも安堵している自分に。
この子どもは毒だ――それも、自分を殺しかねないほど強力な。
「・・おやすみなさい、。――よい夢を」
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03:すこやかなねがお (彼女と猫のこんな日常。) material:paca poco
writing date 090705 up date 090705