いやだ、おいていかないで――・・ざあざあとわずかな隙間もなく降りしきる雨の中で、ルークの言葉は声にならない。見る見るうちに小さくなっていく背中に、ルークはかける声を持っていなかった。自分が異端であることは理解している、そのせいで猫の世界からも、人間の世界からもはじき出されたルークの居場所は公園の片隅の、小さなダンボールの中だけだった。ぐしゃぐしゃにふやけて歪んだ塀の中で、ルークは声を上げることもできずただ遠ざかっていく背中を見つめることしか出来ない。
いやだ、いやだいやだいやだ、ひとりはいやだ、さみしいのはいやだ、いかないで、おれをすてないで――!
そのとき、遠ざかっていく背中がふっと振り向いた。夜のように真っ黒の髪が振り向きざまにパッと散って、ビニール傘を手にしたその人の口がいやらしく弧を描き――・・、
「・・・っ!」
目に飛び込んでくる朝日の白い光、全身を包むとろとろな空気。ぺったりと伏せていた耳を立ててあたりを窺い、頭を持ち上げたルークはそこでようやく自身が息を詰めていたことに気がついた。ふっと視線をめぐらせた先に広がる光景は普段と何ら変わらない、隣ではぶっさいくなツラを晒したが眠りこけている。
いつもならなんとも思わない、当たり前の朝。なのにこの焦燥感はなんだろう、気ばかりが妙に急いて落ち着かない。いやな夢でも見ていたのだろうか、感情がざらついて五感がひどく鋭敏になっている気がする。心臓がドクドクといやな音を立てているのがやたらと耳について、ルークはその場でぎゅうっと身を縮こまらせた。こわい、のとは少し違う。なんだろう・・・・・ふあん? おれが? なににたいして?
「・・・・るーくぅううううっ」
「うぎゃッ、ば・・っやめろ! ぐ、ぐるじい・・・!」
がばあっと布団を跳ね除けるようにして巻きついてきた腕に猫は難なく絡め取られる、の少々・・いや、だいぶ残念な感のある胸のなかでルークは叫び声を上げた。しなやかな尻尾をぴんと伸ばし、爪を立てないようにしながらできる限り全力で前足を突っ張る。しかし当のはルークのそんな抵抗をものともしない、逃げようとする彼を腕の中に抱えたまま再び布団の中にもぐりこんだ。ルークの切実な叫び声は布団に吸い込まれていく。
「ウゼェエエエ! 何なんだよもう、やめろって言ってんだろーがっ!」
「えぇー、だってルークほわほわしててぬくいんだもーん」
もう、ダメだコイツ・・・。きゅうきゅうと絡み付いてくる腕に、ルークは抵抗を諦めた。朝っぱらからこんなことで体力の無駄遣いをしたくない、こういうときはのしたいようにやらせておくのが一番手っ取り早い・・・・・・多分。ぐったりとしてされるがまま、布団の中で大人しくもみくちゃにされながらただひたすらに嵐が過ぎるのを待つ。
「なァ、ルーク?」
「・・んだよ、」
「なんかこわい夢でも見た?」
耳のうしろをかりかりと掻くの指、伏せられていた耳がぴんとそばだてられたのを理解したらしいの声が、布団の向こう側からやわらかく届く。
「・・うなされてるみたいに見えたからさー」
だいじょぶ? ――・・はいっつもこうだ。自分のことにも、周りのことにも興味ないような素振りをするくせに周りのことばっかりよく見えている。そしてありえないほど絶妙のタイミングで、なんでもない当然のことのように片手でひょいと掬い上げるのだ。口の端をニヤリと持ち上げ、軽い言葉で茶化しながら。手を差し伸べるのではなく、背中を蹴りだすように。
「・・別に、に心配されるよーなことなんてねェっつの」
「そ? それならそれでいーんだけどさ」
「それに、やな夢見たからってどーってことねェし」
「・・ほーんとにィー?」
「ほんとだっつーの! ガキ扱いすんなよなっ」
多分、にとってそんなのは本当の本当に 当然 のことなのだろうと思う。だからは、のその言葉が他人に対してどういう力を持っているのか知らない。だから、“ありがとう” を伝える隙を与えない。
「・・・・なァ、ルーク?」
「ンだよ、」
「ルークはさ、ここでよかったと思ってる?」
「―――・・は?」
「いやー、実をいうと嫌な夢みたのこっちのほうってゆーか? ルークが愛想尽かして出てく夢見たんだよねぇ」
「それがまた妙にリアルでさー、がっこから帰ってきたらルークいないでやんの」
「待てど暮らせど帰ってこなくて、ひとりでぼけーっと外見てる夢。・・・リアルっしょ?」
の、こういうところがきらいだ。自分の中だけで勝手にものを考えて、自分の中だけで勝手に結論を出す、この感じ。へらりとした薄っぺらな笑みを浮かべて、勝手になにかを諦めるこの感じ。
「・・それのどこがリアルなんだよ、」
大人しく撫でられていたその手からしなやかに体をすり抜けさせたルークは、仰向けに寝転がるの胸元を四本の足で踏みしめた。首だけを起こし、不思議そうにきょとりとこちらを見上げるに強い視線を返して、ルークは尻尾をピンと張る。本当なら猫パンチの一発や二発お見舞いしてやりたいくらいの心持ちだが、基本的には “三倍返し” という言葉を本当に実行させるから今のところはやめておく。三日連続ナタリア特製のメシを出された臨死体験の記憶は、残念極まりないことにまだ薄れていない。
「それのどこがリアルなんだよ、ぜんっぜんリアルなんかじゃねーじゃん!」
「愛想尽かすとか・・ンなもんとっくの昔に尽きてるっつーの、このバカ!」
「・・・・・ルーク、慰めてんの? それとも貶してんの?」
「どっちもだ!」
眉根に皺を寄せ、しかめっ面をしてみせるの鼻っ柱に頭突きをかます。いだッ、という小さな呻き声と共にの頭がまくらに沈む、ルークはそのすぐ耳元に丸くなり、鼻先を寄せた。はバカだ、大バカだ。・・嘘つくの、ヘタクソなくせに。いっつも、夢なんて見ないくらい爆睡してるくせに。
「ごめんなー、こっちの不安がルークを引きずったみたい」
「・・・・・・ばーか」
「最近ルークにもティエリアにもバカバカ言われてばっかだよもー・・、ほんとのバカになったらどうしてくれる」
「何言ってんだよ、もうバカじゃん」
「・・言ったな!」
覆い被せられる布団におぼれながら、ルークは頭のてっぺんをのあごの下に押し付ける。間髪いれず、するする伸びてくるの腕は隙間を埋めるようにルークの体をぎゅうと抱き締め、猫はそのまま大人しくまぶたを閉じた。とくん、とくん、というどちらともつかない心臓の音が耳に溶けていく。の不安が悪夢を呼び寄せるのだとしたら、それは逆のことだって言えるはずだ。
「あと一時間くらいかぁ・・・ねむー」
「俺知ーらね」
「はぁあ? ルークも一緒に起きるに決まってんでしょー」
「やだよそんなん、俺別に用事ねーもん!」
「そーゆー問題じゃありませ・・・っふわぁあああぁ、」
目覚め始めた世界の片隅で小さな反旗を翻しながら。――彼女と猫は眠りに落ちる。
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04:幸せに出会う時 (彼女と猫のこんな日常。) material:paca poco
writing date 090709 up date 090709