第3話
呆然と、は空を見上げた。
真っ黒で厚い雲に覆われた天から、蜘蛛の糸のような雨粒が忙しなく落ちてくる。
今日最後の講義は生化学。
次から次に黒板に吐き出される化学構造式をひたすらノートに取り、「オイオイ、今学期末のテストはもしかしてこれ全部暗記ですか」と青ざめながらも、はこの講義が嫌いではない。
しかし講義が終わり、記述された構造式のその半端ない量を眺めてやっぱり嫌いかもしれない、とため息をついた。
教科書ノートが詰まったリュックを背負い、農学部棟のエントランスですれ違う人の持ち物を見ては怪訝そうに眉を寄せる。
・・・・傘が濡れていた。
「・・・マジか」
天気予報では何と言っていただろう、と思い出そうとしてそういえば今朝はニュースを見ていないことに気付く。
あんなにいい天気だったのに―――ジェイドのせいだ。
そもそも奴が鍵開けなどして入り込んでいなければ天気予報で確認していたに違いないのに・・などと八つ当たりしても雨が止むわけでもなし。
流石に自分の行動の子供っぽさを自覚したは、ため息でそれら全てを流す。
さてどうしたものか。
ジェイドに連絡したら仕事のキリがつき次第、迎えに来てくれる可能性が高いがそれは流石に気がひける。
ガイはどうだろう・・・メールでもしてみようか、と携帯を取り出した矢先、着信に携帯が震えた。
「・・もしもし?」
『、お前今どこにいる?』
「大学。農学部棟の前」
『そりゃあちょうどいい。お前傘持ってるだろ? 入れて「残念。俺傘持ってない」
『はぁあ? なんで持ってないんだよ』
「おんなじセリフ返してやらァ」
―――・・チッ、使えない。
電話を切った途端、は舌打ちを隠さないが、おそらく向こうも同じ行動をしているはずだ。
途方にくれたように見上げた空はどこまでも暗く、雲が薄くなった様子もない。
「(こりゃしばらく止まない、か・・)」
再び大きなため息を零すと同時に、は覚悟を決めた。
リュックを背負いなおし、よし、と心の中で呟いて雨の中に走り出す。
の住むアパートから大学までは徒歩15分。信号に引っ掛からず、うまいこと走り抜けられれば5分と少しでたどり着くはずだ。
ばしゃばしゃと足元が酷く冷たい。
講義中は気付かなかったが随分前から降っていたらしく、そこかしこに水溜りができていた。
一応避けながら走っているのだが、もはや無駄な努力のような気もする。スニーカーの中がぐしょぐしょと気持ち悪い。
走っている間にほつれた髪が雨を含んで肌に吸い付く。
うっとうしいことこの上ないが、今それを直しても無駄なこともわかっていた。
教科書が濡れてしまうより早く帰り着き、シャワーを浴びたい・・・そう意気込みを新たにしたは、ショートカットするべく普段なら迂回する公園に入った。
いつもは子供たちの声で溢れている公園も、こうも雨が降っていると静かで、あまりに静か過ぎて居心地が悪い。
人気もなく、雨に晒されるままになっている遊具は酷く寂れて見えた。
「・・・・?」
降りしきる雨音の中での耳は、その場にそぐわない音を聞いた気がした。
赤ん坊の泣き声のような―――これは子猫の鳴き声。
そうと認識してしまえば見て見ぬフリなどできない。
この雨の中、ただでさえひ弱そうな声の主が無事でいるとは到底思えなかった。
「・・・ったく、しょーがねぇなぁ・・ッ」
踵を返し、は声の出所を探す。
一度聞いただけのその泣き声は、あれを最後にぷっつりと途絶えてしまっていた。
不安にも近い焦燥を感じながら、は雨に濡れた髪をかきあげる。
このまま見捨ててしまうのも最高に後味が悪いが、もしこれで明日熱でも出そうものならもれなくジェイドのイヤミに一日中苛まれることになる。
それだけはなんとしても回避したい。
「・・あ、いた・・・!」
植え込みの奥、濡れたダンボールのなかにいたのはやはり猫。
だがの予想よりも成獣に近い姿で、もう親離れはとうに終わっていると思われた。
茂みの中にいたせいで見つけるのに手間がかかったが、そのおかげでそこまで雨に濡れてはいない。
けれど衰弱が激しいのか両手で救い上げたその体はくったりと動かなかった。
けれど、手の中の生き物は確かに温かい。
「コイツ、珍しい毛色してんなァ・・・」
しっとりと雨に濡れたその体は鮮やかなオレンジ色を帯びた赤。
首輪もないし、ダンボールにベタな「拾ってください」的な言葉もない。
こんなに綺麗なのに、捨てるなんて勿体無いことをする奴もいたもんだ。
は憤慨したように鼻を鳴らし、背中に背負った教科書のことをハッと思い出して走り出す。
・・・・今更ではあるけれども。
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