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Kano-neko

8-1



「しちさんにじゅういち、しちし・・・・・・・・・・・・・・・・にじゅうはち、」


ジェイドの呼びかけに、その傍らで 二年生のさんすう の教科書を開いていたはきょとんと彼を見上げた。普段はレポートや英語の論文を読みすすめるジェイドの隣で静かにしているのだが、「九九は口に出して、おとうさんおかあさんに聞いてもらいながらべんきょうしてくださいね」 と言われたらしい。ジェイドは来月出発する留学の資料を読みながら子どものたどたどしい口調でなぞられる九九を聞いており、資料から目を離すことなく時折こうして口を挟んだ。

「今、七の段ではなく四の段で考えたでしょう」
「・・・・・・・・ば、ばればれ?」
「ばればれです、最初からやり直しなさい」

えええええ、と不満そうな声を上げる子どもを深紅の瞳がちらりと射抜く。ほとんど反射的に口をつぐんだは、大暴落したテンションでこの日三度目になるやり直しを口にした――ちなみに、この暗唱は今日までに覚えたすべての段をぶっ続けで行われている、一の段から七の段まで、ぶっ通しで。本当なら先生から与えられた宿題は五の段までをもういちど復習してくることだったのだが、「折角、七の段まで覚えたのにがそれでもいいのなら別に構いませんが・・・、いいんですか?」 などと押し測るような見透かすような目で言われて、引き下がることなどできなかった。子どもはほとんど半泣きである。

「しちはごじゅうろく、しちく・・ろくじゅうさんっ!」

星のない夜空のような漆黒の瞳には薄い涙の膜がうかんでいる。ジェイドはひどく必死な顔をしてこちらを見上げる子どもを見遣り、ふむ・・と何かを考えるような態度でわざとらしくあごに指を添えた。引き結んだ口元を小さくふるわせ、不安と緊張をはらんだ子どもの顔は泣き出す五秒前のようにも見えるが、がこの程度では泣いたりしないことをジェイドはよく知っている。・・だからこそこうして遊びたくなるんですけどね、と胸の中で小さく呟いた大人は、子どもににっこりと微笑んだ。ジェイドは飴と鞭の使い方を十分すぎるほど心得ている。

「よろしい、合格です」
「うっしゃ!」

ガッツポーズを作り、体全体で喜びをあらわにする子どもは、ソファの上に立ち上がったかと思うとひらりと背もたれを飛び越え、向こう側に軽い音を立てて着地した。リスやネズミといった小動物を彷彿とさせる、実に軽やかな行儀の悪い動きである。眼鏡の奥ですぅ、と目を細めたジェイドが何かを言うよりもはやく廊下へ飛び出したは、大人がため息をつくころに一冊の本を抱えて戻ってきて不思議そうに首を傾げた。

「ため息つくと、しあわせが逃げるらしいよー?」
「・・・・おや、なら失った分のしあわせは、が分けてくださいますか?」
「あーうん、がんばる」

―――・・最近この子どもは、大人の軽口をあしらうスキルをおぼえたらしい。意味が分かっているのか分かっていないのか、絶妙な声音でそういうセリフを吐くようになった子どもを危惧しているのはジェイド一人ではない。けれどがどこからそのスキルを習得したのかが理解できるために、大人たちはそれをどうこうできなかった(ジェイドが親しい友人たちをあしらう様子に通じるところが多すぎたのだ)。その成長を喜ぶべきか、憂うべきか。子どもは確かに、大人の背中を見て育つのである・・・・・・・・末恐ろしいとはこのことだ。

今度はちゃんとソファの前に回りこんできたの腕の中には、日に焼けてところどころ黄色を帯びたオレンジ色の本が抱えられている。乾いた大地に染み込む雨粒のように、子どもが吸収しようとする知識には底がない。ものは試しにと与えた児童書に夢中になった子どもは、時間があればそれを開いている・・・ただ、夜のこの時間は本を読みたい欲求よりも眠気のほうが先に立って、うつらうつらし始めることも多いのだが。

「進みましたか?」
「うん、フォーンのタムナスさんにすげー会いたい」
「ああ、そんな人もいましたねぇ」

本を大事そうに抱えたはとことことジェイドの隣まで歩み寄り、一瞬ちらりと目線を上げて大人の様子を確認した。さて今度は何を企んでいるのやら・・、子どものそんな態度に気付き、「どうした、?」 と手を差し伸べそうなピオニーと違ってジェイドはちらりとも顔を上げない。けれどそのことで決心のついたらしい子どもは本を抱えたままソファによじのぼると、背中をもたれさせるように大人の肩に後ろ頭をのせた。控えめにあずけられたやわらかな体温に、ジェイドは小さな笑みをこぼす。

「・・どうしました? 今日はずいぶんと甘えたですねぇ」
「・・・・・・・・・・・」

わざわざ自分の部屋から本をとってきたのに、子どもは本ごと膝を抱えたまま口を閉じている。きゅう、と膝を抱える小さな腕に力がはいったことはジェイドの目に明白だった、まるで何か言いたいことをためらっているような態度である。けれどジェイドは何も言わない、先を促すような言葉をかけることもしないし、手元の書類から子どもに視線を落とすこともしない。なにか普通に話したいことがあるならこの子どもはわざわざこんなことをしない、だからジェイドが促さなくともタイミングがくれば口を開く。その時のために、大人は書類に割いていた意識を子どものほうへとゆっくり傾ける。

「・・・・・あと一ヶ月したら、オレ、おじさんとおばさんのところ行くんだよね」

半年間の留学中、はカーティスの本家に預けられる手筈になっていた。

「・・そうですね。そろそろ荷造りもしなければなりません」
「・・・・・・・・・うん」

おじさんとおばさん・・・つまりジェイドにとっての養父母である彼らとの仲は良好だ。子どもらしいあどけなさを残しつつも、聡明なを彼らは可愛がってくれている。けれどは、自身がこのカーティス家におけるイレギュラーであることを自覚しているらしい。自分がおかれたポジションの歪さと、自分がどれだけ恵まれた状況にあるのかを子どもながらに理解しているらしかった。その違和感がおそらく子どもの不安に繋がるのだろう、ジェイドは子どもの髪に指を絡ませる。そしてわざと、子どもの不安を面白がるような声で言葉を紡いだ。

「おや、私と半年間はなれるのが、そんなに寂しいのですか? それは光栄ですねぇ」
「・・・・・・・・・そんなんじゃないし、」
「ほんとですかぁ?」

くすくすと笑って告げれば、耐えかねたように子どもが勢いよく振り返る。苛立ちが宿った漆黒は、子どものそれとは思えないほど強い視線を伴っていた。まるで今にも飛びかかろうと背中の毛を逆立てる猫のような子どもの態度だが、ジェイドはそれを甘んじて受け止めた。深紅と漆黒の視線が溶け合う。


「・・・私は、寂しいですよ」

「半年もあなたに会えないのを、かなしく思います」


鋭く細められていた目がまあるく見開かれ、そこに封じられている黒曜石がふにゃりと輪郭を歪める。何かをこらえようとしているように、子どもは下唇をわずかに噛みながら小さな体をふるわせた。じわりじわり厚さを増していく涙の膜をまばたきで追い出そうとして、けれどその反動で目尻からしずくが溢れたとき、子どもは腕を伸ばして大人の首にしがみついた。

漏れそうになる嗚咽を無理やり飲み込もうとするたびに大きくふるえる背中をさすってやりながら、ジェイドはゆるゆると息を吐く。はじめて留学の話をしたときも笑顔で理解を示し、今日この日まで寂しさのカケラだって滲ませなかった子どもはしかし、ジェイドの首筋にぽろぽろと熱い涙を零している。ぎゅうぎゅうとしがみつき、後ろの襟首のあたりを握り締めた腕がぷるぷる震えているのを目に留めて、大人は小さく苦笑した――いつ吐き出させてやるかというタイミングは、少し前から窺っていた。この子どもは、隠し事をするのが異常に上手い。

――・・半年後の、の誕生日までにはちゃんと戻ってきます。それまで、いい子にしていてください」

ひく・・っ、と喉を鳴らした子どもはそれでも、小さくうなずきながらジェイドの肩口に顔をうずめた。

「誕生日プレゼントはなにがいいですかねぇ、リクエストがあれば聞きますよ?」
「・・まだ、わかん・・っない」
「おやぁ? 私が帰ってくるので十分だなんて、嬉しいことを言ってくださいますねぇ」

ジェイドの首筋につけられた小さな歯型が、否定を明確に表していた。


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「フォーンのタムナスさん」 という言葉だけで、何の作品かピンと来た人とはいい友人になれる気がする。